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	<title>店を開けよう、売場に立とう!これが私の誇りです!「マルトの大震災孤軍奮闘物語」〈後篇〉 へのコメント</title>
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	<description>結城義晴ブログ</description>
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		<title>結城義晴 より</title>
		<link>http://www.shoninsha.co.jp/blog/2011/04/05/7318/#comment-4744</link>
		<dc:creator><![CDATA[結城義晴]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 08 Apr 2011 12:53:16 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[薫のバイオリン弾き様、
久しぶりです。
ありがとう。

郡山に寄ったのですが、
あわただしく去ってしまい申し訳ありません。

マルト、マイヤ、そしてベニマル。
それぞれに役割を果たす。
その自分の役割こそが、
最も重要なのだと思います。]]></description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>薫のバイオリン弾き様、<br />
久しぶりです。<br />
ありがとう。</p>
<p>郡山に寄ったのですが、<br />
あわただしく去ってしまい申し訳ありません。</p>
<p>マルト、マイヤ、そしてベニマル。<br />
それぞれに役割を果たす。<br />
その自分の役割こそが、<br />
最も重要なのだと思います。</p>
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		<title>薫のバイオリン弾き より</title>
		<link>http://www.shoninsha.co.jp/blog/2011/04/05/7318/#comment-4738</link>
		<dc:creator><![CDATA[薫のバイオリン弾き]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 19:44:13 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[結城先生、ドキュメントをありがとうございました。
マルトの皆様の日々の命がけの努力が目に浮かぶようでした。
地域のスーパーマーケットとは「何か」を深く考えさせられます。すべては「個店」において、お客様の感じる「地域」において実現されるのですね。地域を超えての優先順位は、その地域においては全く意味をなさず、そこでの対応はその企業のすべてとして住民の心に深く刻まれますね。今回災害は広範囲ゆえ、リージョナルチェーンにもそのことを真に問いかけています。いわきのＳＭは昔も今もマルトさん。このことを地域のお客様は一生忘れません。そんな企業はほかの地域にいても応援したくなります。再び、ありがとうございました。]]></description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>結城先生、ドキュメントをありがとうございました。<br />
マルトの皆様の日々の命がけの努力が目に浮かぶようでした。<br />
地域のスーパーマーケットとは「何か」を深く考えさせられます。すべては「個店」において、お客様の感じる「地域」において実現されるのですね。地域を超えての優先順位は、その地域においては全く意味をなさず、そこでの対応はその企業のすべてとして住民の心に深く刻まれますね。今回災害は広範囲ゆえ、リージョナルチェーンにもそのことを真に問いかけています。いわきのＳＭは昔も今もマルトさん。このことを地域のお客様は一生忘れません。そんな企業はほかの地域にいても応援したくなります。再び、ありがとうございました。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>結城義晴 より</title>
		<link>http://www.shoninsha.co.jp/blog/2011/04/05/7318/#comment-4737</link>
		<dc:creator><![CDATA[結城義晴]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 17:41:42 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[船村さま、投稿感謝。
「自己整頓の心得」5カ条、
こんな時だからこそ、
こころに沁み込みます。
ありがとう。]]></description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>船村さま、投稿感謝。<br />
「自己整頓の心得」5カ条、<br />
こんな時だからこそ、<br />
こころに沁み込みます。<br />
ありがとう。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>静岡の船村です より</title>
		<link>http://www.shoninsha.co.jp/blog/2011/04/05/7318/#comment-4735</link>
		<dc:creator><![CDATA[静岡の船村です]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 05 Apr 2011 12:40:19 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[日本学研究所　徳永先生のサイトより。偉大なるまことの「サムライ」の・・・


莫煩悩―まくぼんのう　「北条時宗」　　
臨済宗僧侶・松原泰道師の説話を編集

莫煩悩	
「胆、甕（かめ）の如き」

4世紀に統一国家が成立後、大和・奈良・平安の各時代を経て鎌倉時代となる。1192年源頼朝の幕府成立から1333年の北条高時の滅亡までの一世紀半である。鎌倉末期の1274年、中国の支配者、元の国王フビライが日本に使者をよこして、入貢を要求したが鎌倉幕府は拒否した。

「元寇」「蒙古襲来」「文永・弘安の役」	フビライは怒り日本を攻め、壱岐・対馬などが一時、元軍ー中国ーに侵略された国難である。

1275年再び重ねて入貢を要求した元の使者を鎌倉の由比ガ浜で斬った。	当時の幕府最高指導者は北条時宗、23才であった。相模太郎と呼ばれた強い意志と明快な決断力に富む実力者。

1281年、時宗30才の時第二次襲来を受ける。元軍ー中国ー15万人、時宗は沈着に迎え撃退させた。	突如の台風が二度とも幸いしたが全てがそれで勝利したのではない。上下の一致団結の愛国心と勇猛な将兵の努力が、よき指導者の下で結実したからである。

時宗は元―中国―からしかけられた日本民族の危機に、やむなく立ち上がった。

この元寇の役が終わった三年後に33歳の若さで没した。この国難に心身ともにすり減らしたのである。この北条時宗を「相模太郎、胆、甕の如き」と讃えたのは、江戸時代の学者、頼山陽である。

時宗が師事した一人に、彼が中国から招いた禅僧の無学祖元がいた。建長寺から円覚寺に住した。

時宗はある時、祖元に言った。「私は臆病で困る。気が小さくてこまる」と自分の努力不足の反省から祖元に指導を求めた。
的確に自分を小心で臆病と自覚したら、その人は既に臆病でも小心でもあるまい。


「臆病についての対話」

時宗「人間が卑怯・懦弱を脱するには、どうしたらよいか」
祖元「卑怯・懦弱がやって来る源を押さえたらよい」

時宗「その源はどこにあるか」

祖元「汝、時宗から来る」「明日からでも、時宗を捨てたら汝の胆力は天地の如く大きくなるであろう」

時宗「時宗を捨てよといわれるが、それにはどのようにしたらよいのか」

祖元「すべての思いわずらいの煩悩を断て」

時宗「その方法はいかに」
	
この時、祖元は時宗に座禅をすすめる。しかし、時宗は国難控えているから多忙で、とても座禅の時間がないと弁解する。

祖元「座禅堂で型の如く座禅するのが座禅ではない。いつどこでも自己の身体と口と意―こころーを整頓するのが座禅である」
時宗に次の五カ条「自己整頓の心得」を書き与えた。
	
「自己整頓の心得」

①外の物ごとに心を奪われず、泰然として自己の信ずる道を守って動くな。

②外の物ごとに貧着―とんじゃくーむさぼりこだわるーするな、一方に貧着すると必ず他の一方の注意を欠く。油断や恐怖はこんなときに起きる。
		
③自分の才智を恃んで、あれこれ策を樹てるな。常時も非常時も平然として、その心を一にしておれば、どんな異変に遭遇しても、霊妙なる作略が生れるものだ。
		
④心の見る物量を拡大せよ。心の視界が狭小だと胆量もまた自然に少量になるから、心で思うことを拡大せよ。
		
⑤勇気を持て。勇猛の心意気はよく白刃をも踏む。反対に柔懦の身体では、窓の隙間風にも耐えられまい。故に常に心身を鍛えよ。

時宗は豪放の他面で極めて謙虚であったことがこれからも理解される。	
将に、上に立つ人の心構えである。謙虚とはそれはエゴの濾過を意味する。

祖元は極めて「胸中のくよくよを捨てよ」と励ました。	
「時宗よ、心を大空のように広く開け、すると四方から新しい考えが胸中に注ぎこむであろう」と会う度に言ったという。

時宗は祖元との出会いで、人物のスケールは益々豪壮に広がる。	
1281年正月、時宗は祖元を建長寺に訪ねる。色々と座談のあと、祖元は筆をとり「莫煩悩」との三字を書いて時宗に与えた。

祖元は時宗に「今こそ、重ねて自我への偏愛を捨てよ」と新年の垂訓をする。	
煩悩というのは私達の身心をともに悩ませ、かき乱し、苦しませる精神作用の総称である。煩悩も、自分に執われる自我愛から起きる。

時宗「なぜ事新しく「莫煩悩」と教えられるのか」と不思議に思い問う。

祖元にはある直感と洞察があったのだ。
	
祖元は母国の宋を元に滅ぼされた苦い経験から元軍の日本来襲を的確に予言する。

祖元は「春から夏にかかるころ、九州の博多あたりが危険に見舞われるであろう」と元の襲来を予想して時宗の決意を更に固めるために「莫煩悩」を説く。
	
「莫煩悩」も「驀直進前」も人生を豊かに生き抜く大切な言葉である。

果たしてその六月に元の第二次来襲が博多から急報される。時宗は軍装を整えて祖元を訪ねる。祖元は言葉少なに、「驀直進前」とだけ告げる。あれこれ思いわずらわず、ただまっすぐに進めーと。
	
死を恐れずに「驀直進前」と、脇目をふらずに前進した。「よし死んでやろう」の死の凝視であろう。

北条時宗が元寇の国難に処したのは23才から31才の青・壮年期である。自分一身のみにかたよらず、こだわらず、とらわれず、「莫煩悩」の三字に自己を集中した。
	
「驀直進前」は約すと「驀進」となる。驀進は暴走ではない。暴走はただの自己満足であり猪突猛進である。全煩悩の固まりである。生を大切にしない死は悪徳である。

俳人の正岡子規の言葉「禅は、平気で死んでゆくことだけを教えるものだと思っていたら、いかなる時にも、精一杯生きる道が、平気で死んでゆける道につながる」

時宗も子規も、その苦難の故に自分自身を大成している。	
いずれも大難に打ちのめされず、のびのびと何ものにも恐れずに逞しく生きた。

茶道の宗匠が言った。「家元という一流の最高の位置に立つと知らぬ間に	
傲慢になり徳を損ずる、厳しく私の頭を押さえてくれる修行がしたい」と。
感銘深い述懐であり願いである。
	
自分は傲慢になっていないかとの思い上がりに対する恐怖心は偉大なる小心というべき。こうした意味の小心者は、どこまでも進歩する人である。

「頭を押さえて欲しい、そのような人が欲しい」とはトップの崇高な願いでなくてはならぬ。上に立つ者の最高の徳目でなくてはならぬ。


徳永所見	
「莫煩悩」とは、自我への偏愛を捨てよ、ということであろう。

「胆、甕の如き」といわれた北条時宗にして、この小心という崇高な心を持ち国家経営に当たっていたからこそ成功を収めたのであろう。


多謝：徳永先生]]></description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>日本学研究所　徳永先生のサイトより。偉大なるまことの「サムライ」の・・・</p>
<p>莫煩悩―まくぼんのう　「北条時宗」　　<br />
臨済宗僧侶・松原泰道師の説話を編集</p>
<p>莫煩悩<br />
「胆、甕（かめ）の如き」</p>
<p>4世紀に統一国家が成立後、大和・奈良・平安の各時代を経て鎌倉時代となる。1192年源頼朝の幕府成立から1333年の北条高時の滅亡までの一世紀半である。鎌倉末期の1274年、中国の支配者、元の国王フビライが日本に使者をよこして、入貢を要求したが鎌倉幕府は拒否した。</p>
<p>「元寇」「蒙古襲来」「文永・弘安の役」	フビライは怒り日本を攻め、壱岐・対馬などが一時、元軍ー中国ーに侵略された国難である。</p>
<p>1275年再び重ねて入貢を要求した元の使者を鎌倉の由比ガ浜で斬った。	当時の幕府最高指導者は北条時宗、23才であった。相模太郎と呼ばれた強い意志と明快な決断力に富む実力者。</p>
<p>1281年、時宗30才の時第二次襲来を受ける。元軍ー中国ー15万人、時宗は沈着に迎え撃退させた。	突如の台風が二度とも幸いしたが全てがそれで勝利したのではない。上下の一致団結の愛国心と勇猛な将兵の努力が、よき指導者の下で結実したからである。</p>
<p>時宗は元―中国―からしかけられた日本民族の危機に、やむなく立ち上がった。</p>
<p>この元寇の役が終わった三年後に33歳の若さで没した。この国難に心身ともにすり減らしたのである。この北条時宗を「相模太郎、胆、甕の如き」と讃えたのは、江戸時代の学者、頼山陽である。</p>
<p>時宗が師事した一人に、彼が中国から招いた禅僧の無学祖元がいた。建長寺から円覚寺に住した。</p>
<p>時宗はある時、祖元に言った。「私は臆病で困る。気が小さくてこまる」と自分の努力不足の反省から祖元に指導を求めた。<br />
的確に自分を小心で臆病と自覚したら、その人は既に臆病でも小心でもあるまい。</p>
<p>「臆病についての対話」</p>
<p>時宗「人間が卑怯・懦弱を脱するには、どうしたらよいか」<br />
祖元「卑怯・懦弱がやって来る源を押さえたらよい」</p>
<p>時宗「その源はどこにあるか」</p>
<p>祖元「汝、時宗から来る」「明日からでも、時宗を捨てたら汝の胆力は天地の如く大きくなるであろう」</p>
<p>時宗「時宗を捨てよといわれるが、それにはどのようにしたらよいのか」</p>
<p>祖元「すべての思いわずらいの煩悩を断て」</p>
<p>時宗「その方法はいかに」</p>
<p>この時、祖元は時宗に座禅をすすめる。しかし、時宗は国難控えているから多忙で、とても座禅の時間がないと弁解する。</p>
<p>祖元「座禅堂で型の如く座禅するのが座禅ではない。いつどこでも自己の身体と口と意―こころーを整頓するのが座禅である」<br />
時宗に次の五カ条「自己整頓の心得」を書き与えた。</p>
<p>「自己整頓の心得」</p>
<p>①外の物ごとに心を奪われず、泰然として自己の信ずる道を守って動くな。</p>
<p>②外の物ごとに貧着―とんじゃくーむさぼりこだわるーするな、一方に貧着すると必ず他の一方の注意を欠く。油断や恐怖はこんなときに起きる。</p>
<p>③自分の才智を恃んで、あれこれ策を樹てるな。常時も非常時も平然として、その心を一にしておれば、どんな異変に遭遇しても、霊妙なる作略が生れるものだ。</p>
<p>④心の見る物量を拡大せよ。心の視界が狭小だと胆量もまた自然に少量になるから、心で思うことを拡大せよ。</p>
<p>⑤勇気を持て。勇猛の心意気はよく白刃をも踏む。反対に柔懦の身体では、窓の隙間風にも耐えられまい。故に常に心身を鍛えよ。</p>
<p>時宗は豪放の他面で極めて謙虚であったことがこれからも理解される。<br />
将に、上に立つ人の心構えである。謙虚とはそれはエゴの濾過を意味する。</p>
<p>祖元は極めて「胸中のくよくよを捨てよ」と励ました。<br />
「時宗よ、心を大空のように広く開け、すると四方から新しい考えが胸中に注ぎこむであろう」と会う度に言ったという。</p>
<p>時宗は祖元との出会いで、人物のスケールは益々豪壮に広がる。<br />
1281年正月、時宗は祖元を建長寺に訪ねる。色々と座談のあと、祖元は筆をとり「莫煩悩」との三字を書いて時宗に与えた。</p>
<p>祖元は時宗に「今こそ、重ねて自我への偏愛を捨てよ」と新年の垂訓をする。<br />
煩悩というのは私達の身心をともに悩ませ、かき乱し、苦しませる精神作用の総称である。煩悩も、自分に執われる自我愛から起きる。</p>
<p>時宗「なぜ事新しく「莫煩悩」と教えられるのか」と不思議に思い問う。</p>
<p>祖元にはある直感と洞察があったのだ。</p>
<p>祖元は母国の宋を元に滅ぼされた苦い経験から元軍の日本来襲を的確に予言する。</p>
<p>祖元は「春から夏にかかるころ、九州の博多あたりが危険に見舞われるであろう」と元の襲来を予想して時宗の決意を更に固めるために「莫煩悩」を説く。</p>
<p>「莫煩悩」も「驀直進前」も人生を豊かに生き抜く大切な言葉である。</p>
<p>果たしてその六月に元の第二次来襲が博多から急報される。時宗は軍装を整えて祖元を訪ねる。祖元は言葉少なに、「驀直進前」とだけ告げる。あれこれ思いわずらわず、ただまっすぐに進めーと。</p>
<p>死を恐れずに「驀直進前」と、脇目をふらずに前進した。「よし死んでやろう」の死の凝視であろう。</p>
<p>北条時宗が元寇の国難に処したのは23才から31才の青・壮年期である。自分一身のみにかたよらず、こだわらず、とらわれず、「莫煩悩」の三字に自己を集中した。</p>
<p>「驀直進前」は約すと「驀進」となる。驀進は暴走ではない。暴走はただの自己満足であり猪突猛進である。全煩悩の固まりである。生を大切にしない死は悪徳である。</p>
<p>俳人の正岡子規の言葉「禅は、平気で死んでゆくことだけを教えるものだと思っていたら、いかなる時にも、精一杯生きる道が、平気で死んでゆける道につながる」</p>
<p>時宗も子規も、その苦難の故に自分自身を大成している。<br />
いずれも大難に打ちのめされず、のびのびと何ものにも恐れずに逞しく生きた。</p>
<p>茶道の宗匠が言った。「家元という一流の最高の位置に立つと知らぬ間に<br />
傲慢になり徳を損ずる、厳しく私の頭を押さえてくれる修行がしたい」と。<br />
感銘深い述懐であり願いである。</p>
<p>自分は傲慢になっていないかとの思い上がりに対する恐怖心は偉大なる小心というべき。こうした意味の小心者は、どこまでも進歩する人である。</p>
<p>「頭を押さえて欲しい、そのような人が欲しい」とはトップの崇高な願いでなくてはならぬ。上に立つ者の最高の徳目でなくてはならぬ。</p>
<p>徳永所見<br />
「莫煩悩」とは、自我への偏愛を捨てよ、ということであろう。</p>
<p>「胆、甕の如き」といわれた北条時宗にして、この小心という崇高な心を持ち国家経営に当たっていたからこそ成功を収めたのであろう。</p>
<p>多謝：徳永先生</p>
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