〈第33話〉 ブルックリンの橋の上で

2010年9月2日(木曜日)

カテゴリー: 第11章 - Thank You  11時58分48秒

第11章 ―――― Thank You 命をありがとう

ブルックリンの橋の上で

グラウンドゼロを見学した後、未だ一度も訪れたことのなかったブルックリンへ向かうためにSUBWAY(地下鉄)のFラインに乗って、Yorkという駅で下車した。屋外へ出ると、橋の袂に100年以上前に建てられたであろうレンガ造りの倉庫を居抜きにし、アートギャラリー、ブティック、本屋等の店舗が造られていた。

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寂れて治安も良くなかったこの地域を再開発し、ビジネスオフィスやアートディストリクトとして生まれ変わらせたプロジェクトをDUMBO(Down Under Brooklyn Bridge Project )と呼び、土地代が高額なマンハッタン島から若いアーティスト達が移り住んでいるらしい。

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一度聞いたら忘れられないユニークな名称に興味を抱いたことと、美味しい手作りのチョコレート屋があるという噂につられて来た私は、すっかりこの個性的な地区の虜となった。道行く人に尋ねながら例の手作りチョコレート屋を見つけて、お土産を買った。そして、チョコレート屋の向かい側に偶然見付けたフランス人が営むケーキ屋で、フルーツが山盛りに乗せられたケーキとカフェラテを注文し、ショーケースの前に置かれたテーブルセットに腰掛けて休憩した。一切れのサイズが日本の倍はあるケーキだったが、とても美味しく、あと昼食を食べていなかった事もあり、ペロッと平らげてしまった。店の名刺を貰うのを忘れなんという店か覚えていないのだが、またいつかブルックリンへ行ったらこの店を探してみたいと思っている。(この5月に再度訪問した際に、そこはアマンディーユという名であることが判明した。写真を載せたので、もしブルックリンへ行く機会があれば寄って見て欲しい。)

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帰りは、マンハッタン方向へ向かうSUBWAYに乗るはずだったが迷ってしまった。結局、ブルックリン橋を歩いて渡る事にした。10月だというのに気温は30度近くあり、夕方近くになっても蒸し暑さは一向に改善されなかった。この時期のニューヨークは涼しいからと聞かされ、1枚も半そでを持ってこなかった事を後悔した。私は長袖シャツの腕を捲くり、汗で足に張り付いたロングパンツを指で摘み上げ中に風を通した。タンクトップとショートパンツで颯爽と自転車に跨る赤毛でショートヘアーの若い女の子を横目に、流れる汗を拭いながら部屋に忘れてきた地図を思い出し、「あれさえ持参していれば、ブルックリンから地下鉄に乗れたなあ。」と自分の物忘れを反省して呟いた。

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橋のちょうど真ん中あたりまで差し掛かったところで、ペットボトルにわずかばかり残っていた生暖かい水を取り出し、欄干にもたれて飲み干した。実は、この橋を渡る前、道に迷い始めた頃から、グラウンドゼロで自らに問いかけた事について考え続けていた。というよりも、セドナから戻って来てからずっと心の奥底に存在してきた大きな宿題であるような気がしていた。

“病の床から立ち上がった私は、統合的なヘルス&ウエルネスの提供機関の実現に携わるという夢を抱いた。しかし、私はその夢に何処まで近づく事が出来ているのか? 自分の体験を人々とシェアーすることや、私が闘病を通して本当に伝えなければいけない事を、まだ形にさえ出来ていないのだ。”

私はあせりと苛立ちで泣きたい気持ちになった。うだるような暑さと足の疲れも、沈む気持ちを更に重くしていた。足元を見つめながら一歩、一歩、歩き、一体どのあたりまで来ているのかわからなくなってぼんやりと前を見つめた。その時、このブルックリン側から真正面に見えたマンハッタンが夕焼けに染まり、とても美しいことに気付いて立ち止まった。目の前に広がる景色は大自然とはまた違い、もっと身近で躍動的な感じがして、人が生活する息遣いや匂いがあった。それは、あの同時多発テロの大惨事から立ち上がり再び蘇った力に満ちた美しさであり、混沌とした経済状況さえもきっと打破出来ると確信させる光景だった。

15年前に初めてマンハッタンを見て感動した以上の思いが溢れてきて、私は目の前に広がる街に完全にノックアウトされていた。ずっと自分のイメージの中にあったマンハッタンの摩天楼とは異なっていた。ここから見える街は、まるでおもちゃ箱をひっくり返したようにごちゃごちゃと賑やかで、圧倒されるような力で満ち溢れている。私が道に迷わなければこんな光景を見るチャンスは無かったのだ。方向音痴もまんざら悪くはないなと思った。

「ああ、私達の生きるこの世界はなんて素敵なのだろう。そして、そのことをいつも私に気付かせてくれるのは一体誰の仕業なのだろう?」と、考えた。

私はその時、前の晩にブロードウェイで観劇した“カラーパープル”というミュージカルの演目を思い出した。ベストセラーになりピューリッツア賞〔米国で出版物に与えられる最も権威ある賞〕を受賞したこの物語は、1985年にスピルバーグ監督によって映画化もされている。物語は、主人公の貧しい黒人女性が学校にも通えず、実の父親から暴力と性的虐待を受け、身篭った子供を取り上げられ、母を失い、妹と引き裂かれ、暴君のような夫にも虐待されながらも、生きて、生き抜いて困難と立ち向かい、やがてたった一人で自分の人生を切り開いく様子を、彼女が”Dear God,”と呼びかける心の中に居る神様と、届くあてがなくても書き続けた妹への手紙で綴られていた。そしてその妹へ書き続けた手紙の束が第三者に発見されることにより、大きく人生が開かれていくのだ。私の脳裏に、物語のクライマックスで主人公の女性が謳い上げる感動的な一節が再現された。

“私は貧しく、黒人で、
決して美しいとは言えない。
でも、私はこの場所にしっかりと立ち生きている。
私は素晴らしい、
そう、素晴らしい人間なんだ!”

与えられた運命が何であれ、それにキスして抱き締めて、ゼロの状態をプラスに転化させていく、そんな風に人生を歩んで行きたいと思った。一度は死と背中合わせだった私が再び健康になり、こうして再びニューヨークへ来ることが出来た今、ブルックリン橋の上で煌くマンハッタンを目の前にして、その素晴らしい景色とエネルギーを全身で感じている。私はこれからも、もっと夢を見て実現させていくことが可能なのだ。だって、こうして生きているというだけで、100%の可能性とオポチュニティー(機会)が与えられているのだから。

『サンキュー、命をありがとう!』

心の中でそう叫んだ。今、自分が感じている生きる喜びを、もっと多くの人々に知って欲しいと強く願った。体験の記録や自分の考えていることを文章にまとめ、沢山の人に発信する事。それが今の私に与えられた最初にやるべき仕事なのだと直感した。
“そうだ、私にもきっと出来る事がある!”そう思うと、体の底から喩えようのないエネルギーが沸いてきて、私はマンハッタン目がけて駆け出していた。

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五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

〈第32話〉 グラウンド・ゼロ

2010年8月26日(木曜日)

カテゴリー: 第11章 - Thank You  10時39分17秒

第11章 ―――― Thank You (命をありがとう)

グラウンド・ゼロ

  少し話は遡るが、2007年の秋にニューヨークへ小旅行に出かけた。景気の先行きが不透明になり、サロンでの仕事が減り始めた私が多少の時間を持て余していた時、日本に住んでいる長年の友人からニューヨークへ数週間滞在するので一緒に来ないかと誘われた。私は現地で数日間だけ同行することに決めた。ミッドタウンのど真ん中で1泊100ドルの日本人が経営している宿を、3人でシェアーして節約し、その代わりに連日ブロードウエイで観劇するという計画だった。

  ロサンゼルスから真夜中に飛んで明け方に到着する通称“RED EYE”という直行の夜行便が、200ドル台と言う信じられないほどの破格値(相場は500ドル位)で購入できた。安かろう悪かろうで、多少眠れないのは仕方ないと予測していたが、前席にいた2人連れが一晩中話し続けていたのが気になって、結局一睡も出来なかった。私は文字通り寝不足の“赤い目”で、予定よりも1時間早く夜明け前のラガーディア空港に降り立った。

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  地下鉄(SUBWAY)に乗り継ぐ為に空港から乗ったバスの窓にもたれかかり、刻々と白み始める景色を見ながら、最初にニューヨークへ行ったのは15年前だったかしらと指を折りながら数えていた。あの頃は、同時多発テロで崩れ去ったツインタワーも存在した。建物の中にこそ入らなかったが、“自由の女神”を見学するために乗ったフェリーの船上から「これが憧れのマンハッタンだ。」と、魅せられるようにその姿を眺めていた事を覚えている。

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  滞在3日目、他の2名(1人はプロのダンサー、もう1人も以前ニューヨークでダンス留学をしていた)がダンスレッスンに参加している間に、宿泊先から南へ下る地下鉄に乗り、交代で入手すると決めたミュージカルの半額券を1人で買い出かけた。朝一番に半額券を売り出す事で有名なシーポートビジッジにあるチケッツで券を入手した後に、今回の旅で絶対に訪れたかった“グラウンド・ゼロ(爆心地)”へと徒歩で向かった。

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  そこには白い大きなテントが張られ、内部では数年後に完成予定の新しい世界貿易センター1WTCの建設が行われていた。向かいのワールドコマースセンターへ入ると、ガラス張りの窓から倒壊跡地のほぼ全体が見渡せた。土台がやっと出来上がったばかりの現場では人やクレーンが忙しく動き回っていて事件当時の面影は殆ど無かった。しかし、以前は 当たり前にあったものが、突然無くなってしまう事は悲しい事だと感じた。

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  当時は世界中がショックを受けたが、アメリカで生活する私達にとっては更に強い衝撃だった。私もあの同時多発テロで職を失い、病気になって死と直面し、人生が180度転換したのだ。当時の私は本当に自分の事しか見えていなかった。何故、こんな辛い思いをしなければいけないのかと、漆黒の空を見上げては自分の置かれていた状況を嘆く夜もあった。しかし、ここで犠牲になった多くの命や残された家族の事を思うと、私に起きた出来事など比べものにはならないくらい小さいのだ。そう考えると胸がいっぱいになった。と同時に、命の灯火が消える最後の一秒まで病と闘った私の知る人々の顔が浮かんだ。

  生きたかったと思う、生きていて欲しかったと思う。もっと、もっと見たい夢や、やりたい事もたくさんあって、愛する人が握りしめる手のぬくもりをいつまでも感じていたいと願っていたのに、どんなに辛く切ない思いでその手を離さなければならなかったのだろうか・・・。

  私は口元の前で両手を合わせて小さな祈りを捧げ、この瞬間に自分が生かされていることに感謝し、そして自らにこう問いかけた。
「私は今、何を成すべきなのだろう?」と。

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五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

〈第31話〉 浄化、そして再生していく米国

2010年8月19日(木曜日)

カテゴリー: 第11章 - Thank You  12時04分33秒

第11章 ―――― Thank You (命をありがとう)

浄化、そして再生していく米国

  2007年の秋が過ぎた頃から順風満帆に見えた米国の経済は翳りを見せ始め、翌年に入ると住宅価格の下落が止まらなくなり、事態は急速に負の方向へ向かった。そして2008年の11月にはサブプライムローン、ヘッジファンドの破綻問題などが発端となりウォール街の株が暴落した結果、未曾有の大恐慌が米国を震撼させた。また、同時期に発生した原油価格の高騰も消費者達の生活を収縮させた。当然の如く、アメリカ中の小売業やサービス業は打撃を受け、特に贅沢嗜好向けの高級レストランや美容サロンなどへの客足が遠のいた。

  2003年ごろから2006年の後半まで続いた不動産の異常な高騰期には、全米の中で最も成長が著しかったラスベガスで、新しいホテルや住宅、大型ショッピングセンターの開発工事を目にしない日が無い程だった。しかしバブルが弾け、出資元の資金の凍結や倒産でその動きが突然止まった。

  使い捨てられた映画のセットのように、砂漠の真ん中に人工的に植えられたヤシの木、誰も入居することのないカラフルな建物の外壁が砂塵にさらされている光景は、病的な経済状況の象徴のようだった。それよりも悲惨だなと感じたのは、新興住宅で人々が集まる事を見込み、多くのスタッフを雇ってオープンしてしまった大型食料品店や小売店がバタバタと店を閉じていく姿であった。この状態はラスベガスだけではなく、カリフォルニア州やアリゾナ州でも起こっていた。おそらく全米中が同じであろうと予測できた。そして私の周りの人も仕事や家を失っていった。それだけではない、通常不況の影響を余り受けることの無い公務職の郵便局員、看護士、教師の職まで奪われていったのだ。

  しかし、そのような状態においても顕著に業績を伸ばし続けた企業もあった。彼らの多くはリーマンショック以前から健全な営業を続けてきた企業であった。私が専門的に勉強している食品小売業の流れを例にとってあげると、生き残っている企業における彼らの理念の中心にある考え方、及び方法は、従業員を大事にしてきた事、安全で新鮮、そして健康的な最良商品をお買い得価格で提供する事、笑顔を絶やさず親切に顧客へ接する事、他の店にはないオリジナリティー溢れる商品の提供等、それらを常に維持し、継続してきた事ではないかと考えられる。

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  逆に経済の低迷期において、家計の引き締めにシビアになっていく顧客達に対して、とにかく利益を減らして低価格で商品を販売するなど、急遽で表面的な対策を打ったところは、一時的に人が押しかけたが長期的には頭打ちになっていった。また別な視点に立てば、経済がダウンする時期がけして悪い時期だと一概には言えず、結局の所、あの一件以来から消費者はお金の使い方に賢くなり、中途半端でいいかげんな商売の方法は淘汰されてきたと考えられる。お陰で、物を購入する側にとってみれば1ドルを有効に使える価値は以前よりも高くなった。

  例えばこれらの状況を人の身体の健康状態に置き換えると、心身、またはそのどちらか片方に負担をかけるような無理のある仕事や、食生活の連続は、やがて病という結果を招いてしまう。そしてシリアスな状態=重い病となり、先ずはそれを抑えるために強い薬を飲み、悪い部分やその周りの組織を切り取ったり、高熱で焼いてしまったりなど、急を要する対処を行うのが常である。症状によっては、それらの処方が必要である事は否定できない。しかしそれだけでは根本的に状態を改善させる事にはならない。個々の身体にあった、健全で基本的な食生活や休息(心と身体を大事にする)を維持するライフスタイルを長期に渡って続ける事が、真の意味で肉体を再生していく。そうすることで改善される身体は、場合によっては以前よりも良い状況になるケースもあると考えられる。

  病気になる事はけして悪い事ばかりではないのだ。人は病んでみて、始めて健康に感謝する。一瞬、一瞬の時間がかけがえの無いものだと気づき、一生と言う人生を有意義に生きなくてはいけないのだと気づき始める。この国の経済も、浄化し、何が真に求められているのかを見極め、再生する時期である。そして、いつかこの暗雲が晴れたとき、もっと強くて健全な情勢になるのではないかと私は期待している。

  さて私の仕事の方は、通訳兼コーディネーターとしてのリクエストが徐々に増えてきていた。浅野氏が日本側に提案する米国視察旅行が、景気低迷期にこそ業績を伸ばし続けている小売業を訪問し、事業の活性に役立てるという方向性が顧客のニーズにあった。また不景気とはいえ、アメリカのヘルス志向熱はこの景気で停滞するであろうと言うアナリスト達の予想を外れ、大きく減少することは無かった。米国では沢山の加工食品を長年摂取してきた事による健康障害や、現在に至るまで健康保険を保持していない人が四人に一人存在するという事実が、病になるともっとお金がかかるという結果を深く認識しており、普段からビタミンなどのサプリメントを食事のように摂取している。それらの要因から、米国のウエルネス産業は100ビリオンダラービジネスの位置を維持し続けおり、日本からも関心を持たれている。従って自らの闘病体験からも勉強を続けてきたウエルネス分野の仕事が続いた事も幸いした。代替治療から食事療法へ、食事療法から健康的な食生活へ、そしてオーガニックへ、最終的には食品全てに関する流通の世界へと興味は広がり、仕事の幅は少しずつ広がっていった。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター