〈第26話〉 最後の最後まで希望を失わなかった美恵さん

2010年7月15日(木曜日)

カテゴリー: 第9章 - My Dear Friend  11時06分05秒

第9章 ―――― My Dear Friend (親愛なる友へ)

最後の最後まで希望を失わなかった美恵さん
 闘病中の約2年間、お互いに励ましあってきた鈴木美恵さんのお墓参りを済ませた後、ご主人の達也さんに誘われて、一緒にお茶を飲む事にした。
そこは木材で造られたロフト風の喫茶店で、外から店内へ自然光が差し込むようになっていた。午後3時を回った静かな店内には、店長と私達だけだった。“コポコポ”とサイフォンで点てられるコーヒーの音と漂う香りの中で、私達二人は暫く沈黙していた。目を細め、窓から差し込む陽を眩しそうに見ていた鈴木さんから語り出した。

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 「実はね、美恵ちゃんが亡くなって以来、ここへは来てなかったんです。僕らは学生時代からずっと一緒だったんですよ。だからね、やっぱり最初は辛くてね… なかなか想い出のある場所へは行けなかったんです。いやあ、まだ凄く寂しいですよ。彼女に代わる女性は本当に居ないと思っちゃうんですよ。だから、こんなんだから、もう一生再婚なんて考えられないです。でもね、最近、娘の奴が美恵ちゃんにもの凄く似てきてね、いやあ、話し方なんてそっくりで吃驚しちゃいますよ。幼くして母親を亡くした娘も僕以上に辛かったと思うんですが、しっかりしていてねえ。娘に助けられる事も多いのです。ああ五十嵐さん、美恵ちゃんの写真とビデオが携帯に残してあるんで、良かったら見ますか?」
「ええ、是非。」

 小さな携帯のビデオ画面に笑って手を振っている綺麗な女性は、私の記憶の中にある美恵さんだった。そして次に見せて頂いたのは、亡くなる数週間前に撮られたような写真だった。とても痩せてしまっていた彼女の姿に、私の胸は痛んだ。それでも、彼女は美しい笑顔で微笑んでいた。私は美恵さんに触れるように、写真に指をそっと重ねた。

 「美恵ちゃんはね、最後の最後まで希望を失わず、絶対良くなってみせるんだって言っていました。実はもっと若い頃に膠原病にかかった事が有り、それは良くなっていたんですが、癌の治療をしている時に、また、膠原病の症状が出てきてしまって。その為に免疫力が弱り、癌を叩くための十分な処置を取ることが出来なくなってしまったんです。だから、膠原病さえ併発しなければ、助かっていたと思うんですが…。寝ていた病室は子供達が入院している部屋のすぐ近くでね、具合が悪くなっても自分のことよりも子供たちの事を気に掛けて、最後の方は意識がはっきりせず、うわ言を繰り返してね。よく聞くと、“シー、静かにして、子供達が起きちゃうから”って。これが最後に聞いた彼女の言葉でした。随分辛かったと思うんですけど、亡くなる前は本当に眠るように逝ったんです。ものすごく綺麗な顔していました。おかしいよね、最後の最後まで付き添って、どんどん弱くなっていく彼女を見ていたのに、今はどうしても美恵ちゃんが元気だった頃の顔しか思い出せないんですよ。」

 鈴木さんの目に涙が光った。彼は慌てて人差し指でそれを拭い、その指と親指で鼻の頭を摘んで瞬きをし、深呼吸を一つした。“普段は、滅多に人前では泣かない人なのだ”と思うと、今度は私が泣いてしまいそうになった。しかし、そこで私が泣き出せば、きっと彼の涙が止まらなくなると咄嗟に感じた。鈴木さんに気付かれぬように私は微かに震える下唇をかみ締め、外の景色を見るかのように顎先を上げ窓の方向へ顔を向けた。

 

美恵さんが伝えたかった事
沼津駅へ送ってもらう途中、車内では途切れる事無く、2人で美恵さんについて語り合った。2年間Eメールのやり取りをし、お互いが試していた代替療法の情報交換もしていた事を話したら、鈴木さんもよくご存知だった。

 「いやあ、美恵ちゃんも五十嵐さんに負けず、食事療法に始まり気孔療法まで、ほんとに何でもやっていましたよ。中にはちょっと宗教じみているのもあって、本当に大丈夫なのかな?と心配したのもあったけど。でもね、それをやることによって、本人が治るという希望を持てるならそれでも良いと思い、出来る限り応援し、協力し、理解しようとしました。いつか癌を克服し、日本中を回って、自分と同じような境遇の患者さんの心を癒し勇気付けてあげるんだって目をキラキラと輝かせて、何か色々と資料を集めたり、書いたりしていたようですよ。本当に彼女は全速力で生きて人生を駆け抜けて行った感じですよ。僕はね、ああいう結果にはなったけど、やりたい事をやらせてあげた事に後悔はしていません。美恵ちゃんも同じだったんじゃないかなと思います。例え短くても、あんな生き方があってもいいんじゃないかなって。そうそう、美恵ちゃんが亡くなってから何か書き留めていたノートを見つけたら、中にこう書かれてあったのです。」

ハルカちゃん、
ちょっぴり気が強い性格が、私に似ていて心配だけど、
本当はとても優しくて、笑顔が素敵な私の大切な娘
タツヤさん、
少し頑固で不器用なところもあるけど
世界で一番大好きな、私の大切な旦那様

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 私はそれを聞きながら、心の中が熱くなるのを感じていた。
鈴木さんに別れを告げ、駅の改札に入る前に、私は意を決し振り返り見送る彼に向かって大きな声でこう言った。
「鈴木さん!あのう、もし良ければ、いつか美恵さんの事を私に書かせて頂けませんか?いつになるかは、まだ分からないんですけど、でもいつかきっと、美恵さんの事を、そして彼女が病気を通して人々に伝えかった事を、この手で伝えたいんです。」
鈴木さんは最初に会った時と全く同じ笑顔で頷かれていた。


五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

〈第25話〉 鈴木美恵さん

2010年7月8日(木曜日)

カテゴリー: 第9章 - My Dear Friend  10時27分35秒

第9章 ―――― My Dear Friend (親愛なる友へ)

鈴木美恵さん

  2006年7月8日、月刊“ダイエット&ビューティ”主催座談会の翌日、私は東京から静岡県の三島駅に向かい、沼津行きのローカル線に乗り換えた。この日、私にはどうしても沼津へ行きたい理由があった。

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 闘病時代の2002年、日本で抗酸化サプリメントと生薬を処方し、西洋医学に対して不安や疑問を抱える癌患者に代替治療を行なう医師を、知り合いから紹介された。私はその医師の診断を受けるために訪れた診療所で順番を待つ間に、隣に居合わせた女性と仲良くなった。彼女の名前は鈴木美恵さんといい、出会った日から約2年後の2004年6月13日に36歳の若さで彼女が天に召されるまで、Eメールを交わし続けた友人であった。私は沼津市内にある美恵さんのお墓にお参りがしたかった。

 歌手の今井美樹さんに少し似た彼女は、私の息子とほぼ同じ年頃のお嬢さんがいた。子供の為に絶対生きようね、元気になろうねと、お互い励まし合いながら色々な代替療法や食事療法についての情報を交換し合ってきた。

 美恵さんは卵巣癌の再発で、先に受けた放射線や抗癌剤治療によって自らの身体を傷つけられたと語り、もう二度と抗癌剤は受けたくないとの強い意思を持っていた。そして玄米菜食を取り入れた食事療法や、ヨガや気功体操に通って自己免疫力を高める事を続けていた。常に前向きで、病と戦いながらも、主婦と子育てに奮闘する美恵さんの毎日が生き生きと綴られていたメッセージのほとんどは、「元気ですか?私は元気です!」で始まっていた。そして亡くなる3ヶ月前の2004年3月7日に送られてきた次のメッセージが、美恵さんからのラストメールとなった事を、その後に知る事となる。

「ありがとう!私も自分は治ると毎日頭にたたきこんでいます。そうすることで脳はそれを証明しようとするそうです。 ゆうこさんにも、たくさんの情報や励ましの言葉をいただき、どんなに私にとって力になっているか―。ありがとうございます。お互い頑張りましょう!私も絶対まけません。」

 励まされていたのは私も同じだった。美恵さんと交わしたEメールの全ては、受信箱のローカルフォルダ内に今も“MIE”の名で保存してある。

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悲報、そして沼津駅にて
2005年の11月に日本へ帰国した際、久しぶりに美恵さんの声を聞きたいと思い、彼女の携帯番号に電話を掛けた。すると、電話に出たのは美恵さんではなく、女の子の声だった。“きっとお嬢さんだ”と思い、
「友人の五十嵐と言います、お母さんに代わってもらえますか?」
と尋ねた。すると、小さく息を吸い込むような音が聞え、少し沈黙が流れた。悪い予感が私の頭を過ぎり、心臓がドキドキと鳴り始めた。
「あのう、ちょっと、お待ちください…」
途切れがちな少女の声が、私の鼓動を加速させた。

 暫くしてから、男の人が電話口に出てきた。美恵さんのご主人だとすぐに分かった。
「ああ、五十嵐さん、五十嵐ゆう子さんですね?美恵から貴方の名前は時折聞かされておりました。実は…残念ながら、妻は…昨年の6月に亡くなりました。妻の携帯電話は今、娘のハルカが使用しているのです。」

 その一言で、完全に気が動転した私は、何と言葉を続けていいのか分からなくなった。激しい鼓動の音にめまいすら覚えた。緊張で乾いた喉の奥からやっと発した言葉は理性を失っていた。
「あ、あ、あのすみません、電車が来てしまって、今乗らないといけないので、また電話します。」
私は咄嗟に嘘を付いて電話を切ってしまった。そのまま年が明けるまで、電話を掛ける事が出来なかった。

 そして翌年の4月になり、日本へ数ヶ月後に帰国する事が決まってから、再び鈴木さんへ電話を掛けた。先の失礼を詫びて、お墓へぜひお参りしたい旨を伝えた。鈴木さんは快く受けてくれた。
鈴木タツヤさんとお会いするのはその時が初めてだった。小雨がぱらつく中、三島駅でローカル線に乗り換え、沼津へ到着した頃はちょうど梅雨の晴れ間で駅の外に出ると木漏れ陽が射していた。

 鈴木さんは駅まで車で迎えに来て下さった。彼の温かな笑顔は、緊張していた私を和ませてくれた。美恵さんが眠る霊園へは、車で10分ほどの距離だった。
中へ入ると、線香や蝋燭が並んでいる無人の売店があり、そこでお線香を買い求めた鈴木さんに続いて、私も線香を買った。彼は水の入った手桶と柄杓を持ち、先頭に立って美恵さんのお墓まで私を案内してくれた。

 美恵さんが眠る御影石に、鈴木さんは小さな声で「美恵ちゃん」と話し掛けながら、私が来たことを告げ、まるで生きている女性を扱うかのように、優しくゆっくりと石に水を掛けて綺麗に磨き、線香に火を点け、持参された花を墓前に供えて手を合わされた。

 私も線香に火を点けて手を合わせながら呟いた。
「美恵さん、ごめんね遅くなって、やっと貴方に逢いに来たよ。」

 実は彼女が亡くなる前の年(2003年)の7月に、三島で待ち合わせて一緒に昼食を取る約束をしていたが、私が新幹線を乗り過ごしてしまい、時間が遅くなって、彼女のお嬢さんのお迎え時間と重なってしまった。「じゃあまた、来年に会おうね!」と本当にまたすぐ逢うつもりの感じで、お互い電話で話して別れた。

 その翌年(2004年)、私は入院し、抗がん剤治療に入り、彼女もまた2003年のクリスマス前から入院したので逢う事が出来なかった。

 美恵さんとのEメールのやり取りは、定期的にあったわけではない。毎日のように沢山やり取りする時もあれば、何ヶ月も音沙汰が無い時もあった。
“ああ、あの時、私が遅れなければ逢う事が出来たのに。もしくは、またすぐに、2~3日後にでも沼津へ来る事も出来たのに”と悔やんだ。

 霊園を出た後、鈴木さんから、
「五十嵐さんのお時間がまだ大丈夫なら、妻が生前通っていた、
お気に入りの喫茶店が近くにあるので、コーヒーでも飲んで行きますか?」と誘って頂いた。

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五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター