〈第6話〉  発病、そして人生の大いなる転機

2010年2月25日(木曜日)

カテゴリー: 第2章 - Beginning of My Journey  10時50分34秒

第2章 ―――― Beginning of My Journey (旅の始まり)

発病、そして人生の大いなる転機

 年が明けて、頻繁に胃の痛みを感じ、血尿が止まらず微熱が下がらない日があった。
私は相変わらず中国系の旅行会社で働いていたが、仕事への熱意は持てず、毎朝出勤する事が苦痛だった。体の不調について多少は気になったが、数年前に仕事で忙しかった際にも血尿が出た事があり、検査を受けたが特に異常は見つからなかった。従ってこれは絶対にストレスのせいだと信じこんでいた。
その頃、朝から憂鬱になりがちであった自分自身にスタートをかけようと、簡単なストレッチ運動と腹筋を毎朝行ってから家を出るようにしていた。そしてある日、いつものように腹筋をしていたら、左肋骨の真下あたりに瘤の様なしこりがある事に気がついた。「エッ、何?」と思い、何度もそのあたりを触ってみたリ、押してみたりした。その塊自体に痛みは感じなかったが、硬く、妙な圧迫感を少し感じた。胸騒ぎを感じながら慌てて病院へ行き、検査を繰り返した結果が悪性腫瘍、すなわち『癌』だった。
母と母方の祖母を子宮癌で亡くしていたので、いつか自分も同じ病で死んでしまうのではないかというトラウマをずっと昔から抱き、夢でうなされることもあった。癌の種類は違ったのだが、病の宣告を受けた時、「とうとうきたか。」と思った。その時までの私はまるで刑の執行を待つ罪人の心境だった。
けれども、一旦自分が癌になったと認識した直後、長い間を通して私に付きまとっていた“いつか癌になるかもしれない‘”という恐怖感が一瞬にして消えてしまった。
その後、私は様々な体験を経て、病と戦い、夢を抱いて新たな人生を歩むことになる。
英語に『OPPORTUNITY (転機)』 という言葉があるが、まさしく私にとっての癌宣告はBig Opportunity(大いなる転機)であり、私の新たなる人生の旅はそこから始まったのだ。

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次に続くメモは、私が闘病中にロサンゼルス在住のクロスカルチャー・コンサルタントで臨床心理学博士、そして自らも乳癌を克服したと言われる三浦たつ子先生(Dr.タツコ・マーティンとして日本でも著名)よる代替医療勉強会へ参加した際、講義の内容をまとめたものである。

成人病を告知された患者たちに共通する生活習慣
1.仕事の鬼だった。(食事や睡眠や休みを無視して仕事中心の生活)。
2.コーヒーやアルコール、煙草の大量摂取と肉中心の食生活。
3.睡眠不足。(病気にならないためには最低6時間以上必要)。
4.ストレスを常にかかえる環境にいる。
5.恨みや僻み。怒りなどのネガティブ(マイナス)思考を抱く。
6.悲しみ、身の回りの不運において自己を責める。

成人病の完全克服に成功された方々に共通する生活習慣
1. 決死の覚悟をして生活スタイルを一変させる。
2. 周りの助け(友人、家族、恋人、両親、他界した人、守護霊などを含めて)を得る。
3. 落胆した気持ちを持たず、絶対に治るという確信を持つ。
4. 自分の精神をポジティブに保つ(自分に優しく、自分を責めない)。
5. 日常生活でストレスになる人を遠ざける(自分や周りのエネルギーを吸収し、暗くさせるような人と付き合わない)
6. 穀物、菜食中心の食生活と良い水(ミネラル豊富)を1日にコップ10杯以上飲む。抗酸化食品を摂り、体内の解毒を行う。
7. 自分の第6感(直感)に従う。
8. 医者の言うことを聞かない。
9. 1日のうちに必ずリラックスする時間を見つけ、精神をゆったりさせる事を実行する。(これは治癒の上で一番大事)。
10.周りのモラルサポートを十分に受ける。(グループセラピーや勉強会などへの積極的な参加)。
11.自分の病気、そしてそれを教えてくれた体に感謝の気持ちを持つ。
12.自分の病を大袈裟にしない。
13.周りの人へ優しく接する。(常に愛をもって接する)。
14.目標、生きる目的を見つける。
15.神様や太陽、自然の大地、宇宙などの霊的なものを崇め、助けを求める。
16.健康回復に向かい、決めたことを実行する。
17.病に焦点を置かない。病自体を治すと考えるより、如何に健康な肉体を得られるかと言う事に焦点をおく。
18.「ノー!」といえる強さを持つ人間になる。我慢をしない。
19.毎日運動をする、柔軟体操が一番大事。(リンパを刺激する)。
20.十分な睡眠をとる。(1日8時間以上)。

また次は、Dr. Larraine Day(www.drday.com)という癌生還者の女性外科医が、自身の講演会や著書等で述べている要点である。
彼女は進行性乳癌の宣告を受け、発見時には腫瘍はすでにグレープフルーツ大の大きさに成長しており、肺への転移もあったが、手術や放射線、抗がん剤等の西洋治療を一切受けずに自然療法で自らの病を治癒した後、代替医療の第一人者となった人物である。
彼女の経験に基づく10の法則を下記に記すが、いくつかは上記のリストと重複する。

 1. 植物性プロテイン、水、野菜、果物、穀物、青汁を飲む等の食生活を中心にし、動物性の蛋白質の摂取は一切止める。
2. 日に3~5回の運動をする。(柔軟体操やストレッチ)。
3. 良い水を1日にたくさん飲む。(病気の時20杯、健康回復時10杯)。
4. 適度の日光浴をする。
5. コーヒー、煙草、酒、薬を一切取らない。
6. 新鮮な空気を吸う。
7. 十分な休息、睡眠をとる。(夜は9時半~10時の間に就寝、朝は6時起き)。
8. 完治を信じる心を持つ。
9. あらゆることへの感謝の念を持つ。
10.奉仕の精神を持つ。

そして、これは私の周りで癌を克服した人々に聞いた言葉。
 
“死にたくない”と思うのではなく、“生きたい”と思うこと。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

〈第5話〉  米国同時多発テロの経験と病んでいった心と身体

2010年2月18日(木曜日)

カテゴリー: 第2章 - Beginning of My Journey  10時18分23秒

第2章 ―――― Beginning of My Journey (旅の始まり)

米国同時多発テロの経験と病んでいった心と身体

 2002年に癌を宣告される前の年まで働いていた日系旅行会社のロサンゼルス支店で、私はオペレーション主任という役職に就いていた。小さい会社ながら部下を抱える立場上、責任は重かった。人一倍、負けん気が強かった私は、風邪を引いても休みを取らず、体を酷使して働いていた。それでも仕事が好きだったし、女性ながら会社のトッププレイヤーとして働くことにプライドも持っていた。家に帰れば子供の世話と家事をこなし、寝る時間も惜しんで働く主婦を十年近く続けた。
仕事は非常に忙しかったが、結果として2倍や、時には3倍のボーナスを年の暮れに貰えるので遣り甲斐を感じていた。私の有給休暇は1ヶ月以上も溜まっていたが、特に休みを取りたいとも思わないほどに働く事が楽しかった。

 そして、2001年の9月11日。あの忌まわしい米国同時多発テロが発生した。

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 当時、米国に在留していた殆どの人がこの惨事の瞬間に、自分が何処で何をしていたか克明に覚えているという。それほどショッキングな、脳裏の奥にべったりと張り付くような出来事だった。
その日の朝、私は仕事へ行く準備をしながら、コーヒーを片手にテレビのスイッチを入れた。 モーニングニュースを見るというよりも、車で通勤する私は、毎朝の交通情報をチェックしてから出掛けるのが日課だった。
突然、画面には飛行機が衝突して煙があがっている、どこかで見たような建物が映し出されていた。“え、事故?これってもしかしてニューヨークの建物・・・” と思って見ていると、続いてもう一機が隣の建物に激突した。レポーターの悲鳴が上がる。

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 私の携帯電話が鳴った。会社のスタッフからだ。
「ゆう子さん。今、テレビ見てる?」
「さっき、スイッチを入れたところ。一体何が起きているの?」
「ニューヨークのツインタワーに、飛行機が続いて衝突したでしょ?」
「うん、見た。」 そう言った時、背中に冷たい汗が流れた。
“私は今、夢を見てるのか?違う、夢じゃない!” 現実に、何かとても恐ろしいことがアメリカを襲っているのだと察していたが、それでも頭の中は完全に混乱状態だった。
「ゆうこさん、もしもし!聞こえてる?会社どうしよう、行った方がいいかな?」
「え?ああ、、、うん。とりあえず私は今から出るよ。動いているツアーのことも心配だし。」
その年の9月は、例年に無い程忙しく、我々が手配しているツアーの団体客は、ほぼ全米の主要都市に散らばっていた。
“各地の空港はどうなっているのだろうか?暫くの間は飛行機が飛ばないだろう。もし移動が一日ストップしたら、ホテルやレストランの手配が混乱してしまう・・・”
頭の中でそんなことを考えながら、会社への道のりを運転していた。
そこへ、別の知り合いからの電話が入った。
「今、何処にいるの?」
「車の中。」
「ああ、じゃあテレビ見てないよね?」
「さっきまで見ていたよ、ニューヨークのツインタワーに飛行機が二機突っ込んだのを。」
「今、その片方が崩壊した。同時多発テロだってニュースで言ってる。」
「嘘・・・」
その時、カーラジオが入っていない事に始めて気づいた私は、慌てて“ON”のボタンを押した。
悲鳴に近いレポーターの声が流れていた。
“・・・ツインタワーの一棟は崩壊・・・、ワシントンのペンタゴンにも一機が衝突し、甚大な被害で、死傷者は多数・・・・・”
「ゆうこ、あなたは今ロスの市内へ向かって運転しているのでしょう?衝突した機体は、東から西へ向けて飛んでいたらしく、現在もロサンゼルスの方向へ、テロリストの乗った機体が飛んできているという情報があるそうだよ。大丈夫なの?引き返したら?」
「うん、でも行かないと。」
「え!本当に大丈夫?でも、何かそれらしいニュースを聞いたらすぐ引き返した方がいいと思うよ」
「わかった!心配してくれてありがとう。」 

 幸い、ロサンゼルスは無事だった。
それからの数日間、社のスタッフ全員が十分な食事や休憩も取らずに、全米中で動揺と混乱に巻き込まれたツアー客を、安全に帰国させるため必死に対応した。
なんとか帰国にこぎつけたお客様や同行する添乗員達から、出国前にお礼の電話を頂き、次にアメリカへ旅行するときは宜しくお願いしますと言って頂いたのも束の間、事態は更に深刻な“戦争”という方向へ向かっていた。
米国への旅行は要注意との警告が出され、アメリカにやってくる予定だったツアーは全てキャンセルされた。そして当然の如く、多くの旅行関連会社は閉鎖に追い込まれ、私も職を失った。
世界貿易センターが崩壊していく模様が、繰り返し何度もテレビで流される中、今まで自分が頑張ってきたことに何の意味があったのかと自暴自棄になり、毎晩眠れず、お酒を飲んだ。就職活動をしようにも、旅行業者のキャリアでは、どの社も雇い入れてはくれなかった。

 面接に落ち続けて途方にくれ始めた頃、Eコマースの仕事で、日英のバイリンガルであれば経験不必要という仕事を新聞広告で見つけた。
たくさんの人が職を失っている中で、破格の高時給で雇われた。けれども、いざ蓋をあけてみると、無修正の米国製ポルノビデオやDVDを日本に送る仕事であった。各女子従業員にはコードネームのようなものが与えられていた。それらの商品を作って管理していたスタッフは英語しか話せなかったが、社長は日本語を片言話せる中国系アメリカ人であった。Eメールで客との交信を行う部門で働いていたのは全員日本人女性であった。猥褻なメッセージは、あらかじめ保存してある資料に書き並べてあり、それらを自分で適当に選んでメールにペーストして送信するだけの作業であったが、いくら仕事が無く、お金のためとはいえ、嫌で、恥ずかしくて、自己嫌悪に陥る毎日だった。ケースに張られた男女が絡みあう裸体の写真を手に取った後、私は理由もなく化粧室に駆け込み、幾度も幾度も手を洗った。時々、キリキリとした胃の痛みを感じては気分が悪くなり、胃液が出るまでトイレで吐いた。そして、生理中でも頭痛など滅多に起こさないのに、偏頭痛のような症状にも悩まされた。きっとストレスが原因なのだと思っていた。結局、その仕事は二週間と続かなかった。

 その後、知り合いの紹介により中国系の旅行会社で働いた。中国富裕層の資金対策か税金対策のための幽霊事務所で、業務は殆ど無く、従業員は私一人だった。事務所の机に座りきりで、給料は出たり出なかったり。社長も滅多に顔を出さないと言う始末だった。仕事や将来に対する不安に、私は押し潰されそうだった。

 光の見えない、まるで泥の底を這うような毎日が続いた。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

〈第4話〉 母の死

2010年2月11日(木曜日)

カテゴリー: 第2章 - Beginning of My Journey  08時25分38秒

第2章 ―――― Beginning of My Journey (旅の始まり)
 
母の死
私が5歳の誕生日を迎える前に、母が亡くなった。母の命を奪ったのは進行性の子宮癌だった。娘の私が言うのもおかしいが、母は美人だったそうだ。私の勉強机の上に立てかけられた、涼しい瞳で微笑む母の写真がその片鱗を物語っている。享年たったの33歳。歳よりもずいぶん若く見えたらしい母の死に顔は、まだ少女の面影を残していた。

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 元々病弱だった母は、出血がなかなか止まらないという病を生まれつき抱えていたので、私を身篭った時も危険を覚悟しての出産だったらしい。母は私を随分と可愛がり、片時も傍を離れなかったそうだ。
しかし、物心がつき始めたばかりの幼かった私に、残された母の記憶はほとんどない。母はどんな香りがしたのだろうか、母のことを私はなんと呼んでいたのだろうか?
「ママ?お母ちゃん?お母さん?」悲しいかな、それさえも覚えていない。ただ一つ記憶に残っているのは、薄化粧を施され、たくさんの白や黄色の花々に囲まれて棺の中に横たわる母が、ディズニーの絵本に出てくる“眠れる森の美女“さながら美しかった事である。その透き通るように白く柔らかな最期の表情だけは、今でもはっきりと瞼に浮かぶ。
近年に父が心臓発作で没した折、母を弔って頂いたお坊様と再会する機会を得た。彼もまた、棺の端を小さな両手で掴み、母の死を理解できずにその死に顔を覗き込んでいた幼い私の姿を、ずっと心に留めていてくれたそうだ。
「何が悲しいて、ちっちゃな子供を残して死ななあかん仏さんと、親を亡くしたことの意味をわからへん無垢な子供を見るときほど辛いことないな。そんでも職業柄、若うして病で苦しんで逝った仏さんを仰山見てきたけれど、あんたのお母ちゃんほど安らかで綺麗な死に顔はめったに見いへんからよう覚えてるわ。」
とおっしゃった。
その言葉を聞いて、私の幼い記憶は決して誇張されたものではなく、見たそのままの母の顔を覚えていたのだと確信出来て嬉しかった。
現在よりも一層『死』に近い病と闘い抜き、相当に苦しんだはずの母の死に顔が、なぜ印象に残るほどまでに美しくありえたのか?
私が成長したある日、母代わりとなって育ててくれた祖母が伝えてくれた母の言葉がある。もはや為す術がなく、死が目前に迫り、モルヒネ注射で痛みを抑えなければならないほどの状態で、母はこう語ったそうだ。
「体中が耐えようもなく痛い、こんな酷い苦しさを味わうくらいなら、ただただ早く終わって欲しい、もう死んでしまいたいと幾度となく思います。でも、幼い娘を残していかなければならないことは、その痛みの何十倍もの力で私を苦しめます。私がこのまま死んでしまって、まだ幼いこの子はどのくらい私のことを覚えてくれるのでしょうか?母がいたということすら、忘れてしまうのではないでしょうか?何よりも辛く悲しいのはその事です。」
彼女のそんな思いが天に伝わり、最後に奇跡を起したのだと私には信じられる。母は、幼い私が決して怖がることのないよう、そして美しい母の面影を心に刻むことができるよう、その最期の瞬間を穏やかに終えることが出来たのだ。
そして、更なる母の願いも叶えられた。それは私が大人になって随分後に気付くのだが、生涯私の魂に寄り添い一心同体となって私の人生の道しるべとなり、私が生きる限りGuardian Angel(守護天使)として、私の傍らでいつも守り続けてくれているのだ。今の私にはそれがしっかりと感じられる。

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 そして成人した私は、留学の為に米国ロサンゼルスへ渡った。そこで今の主人である在米日本人の彼と出会い、3年間の付き合い後に結婚して、子供に恵まれない5年が経ち、不妊治療と3度の流産の末、ようやく一人息子を授かった。
『奇跡』と言うものを、もし形で現すとすれば、私は『命の誕生』こそ、まさしくそのものであると思う。
母体から取り出されたばかりの、まだヌメヌメとした体液で覆われた産まれたばかりの赤ん坊は、輝く光の衣を纏ったように神々しかった。それを見た瞬間、産みの辛さも痛みも全て消えてしまい、今まで味わった事の無い幸福感を感じた。
看護婦さんに体を拭いてもらい、真っ白なコットンのおくるみに包まれて、私の腕に手渡された時、息子は泣くばかりか、私の顔をみてニターと微笑んだ。
私は驚いて、産科の先生に問いかけた。
「先生、今 この子今笑いましたよ。見えているんでしょうか?」
「産まれたばかりの赤ちゃんは凄く近視なのですが。ぼんやりとなら見えているのではないかな。外の世界へやっと出てこれて嬉しいんだね。“ハイ、マミー宜しくね”と貴方に挨拶してるんですよ」
私はその愛おしい笑顔に、心からこう返した。
「うちへ来てくれて本当にありがとう。大切に、大切に育てるからね。」

我が子をこの手に抱き、一番最初に願ったこと
“せめてこの子が私の事を、母と呼べるまで生きていたい”

     我が子が初めて私を『マミィ』と呼んだ時、心から願ったこと
“私をそう呼んでいた事を、この子がずっと覚えていられるほど
成長するまで生きていたい”

     そして、我が子が6歳だった2002年の4月16日
癌を宣告された私が、天を仰いで誓ったこと
“決してこの子を母が無い子にさせはしない
私は死なない
いつまでもこの子の為に、生きていくんだ”

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター