〈あとがき〉 読者の皆様へ

2010年11月18日(木曜日)
カテゴリー:

あとがき

 10時41分09秒

読者の皆様へ、

 長きに渡り私のストーリーにお付き合いくださいまして、本当にありがとう御座いました。

 自らの闘病記録をメインに、仕事の事、将来の目標等について文章に表すことのきっかけとなったのは、エピローグの章で出てきた“砂漠に咲き誇る花”を目にしたことからでした。

 実はその頃、私は色々な困難を抱えていました。そして死の淵から生還した体験さえ忘れて、生きる希望を失いそうな状態でした。

 仕事におけるスランプ、夫婦生活の問題(主人が職場の上司との人間関係で鬱状態となりました。)、馴れない土地での生活の難しさ等、色々考えると夜も眠れない状態でした。特に主人との関係は破綻の一歩手前でした。その余波は息子にも伝わっていたのではと思います。

 月に数度、ラスベガスからロスアンゼルスへと仕事の為に車を運転し、通っていた私にとって、灰色一色が延々と続く砂漠の景色は単調で、気持ちが沈むばかりでした。その少しも好きにはなれなかった砂漠の地に、ある日突然現れた黄色の花畑は、本当に息をのむほどの感動的な光景でした。

 文中にもあるように、雨が殆ど降ることの無い乾いた大地は石のように堅く、それを突き破って咲いていた花は、あまりにも可憐で、どこにそんな力があるのかと思いました。

 その時にある重要な事に気が付いたのです。花の幹は細いけれども真っ直ぐに太陽に向かって伸びていました。顎を上げて、上を見上げなければいつまでも地面の下のような暗闇からは抜け出せないのです。目に見える物質的な大きさに関係なく,意思の力はきっと堅い岩をも貫けるのだと理解しました。このことが、私に勇気を与え、心にかかった雲を一瞬にして晴らしてくれました。そして一時的でしたが、私が病気の悪化で歩く事すら困難になった時、ベッドの上でいつも考えていた事を思い出しました。

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 “人が立って歩けるというのは、なんと凄いことなんだろう。私が再び元気になり、自由に歩く事が出来たら、何処へでも行けるし、なんだって出来る。”
苦境の中においても、一歩でも、ニ歩でも、思うが侭に前へと踏み出せるニ本の足を私はもっていたのだと言う事を再確認したのです。

 このように私が体験した過去の経験を振りかえり、それを文章にすることで、さらに自らの身を引き締め、以前よりも更に前向きな気持ちを持つことも出来ました。そして不思議なのですが、この著書を書き始めた頃から、私の周りで様々な出会いが生まれ、自分の未来が少しずつ開けていったように思います。

 この物語を綴っていた数年間に二つの悲しい別れと、一つの奇跡の物語がありました。先ず二つの別れとは、20年来、家族ぐるみでつきあってきた友人の奥さんの死と、仕事を通じて東京とアメリカで長年共に働いてきた先輩の死でした。双方とも最後まで希望を失わずに、一縷の希望を信じて病と戦い続け、力尽きて天に召されて行きました。もっと、もっと生きて、やりたい事も沢山あったであろう彼らの無念を思うと、今生きている事に感謝し、悔いのない日々を過ごさなくてはいけないと教えられている気がします。

 その一方で、6歳の頃から世界でも数例しかない難病を患い,二度も死の淵をさまよいながらもその生命力で蘇り、今は学校に通えるほどになった知り合いの姪御さんがいます。

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 このように、光と影がいつも隣り合わせであるように、人の生死は我々が簡単にコントロールできるものではないのかもしれません。しかし、一つだけ確かな事があります。それは著書の中でも述べた、”今生きているだけで、100パーセントの可能性が与えられている”と言うことです。その可能性とは自分の心の状態を変える力です。人間の感情と言うものは、如何なる状態に置いても自由であり、自らの意思で幸福にも不幸にも自由に動かす事が可能なのです。

 毎年日本を訪れる度に、企業の戦士達が自らの命を絶つという悲しい話を耳にすることが少なくありません。特に近年の長引く世界経済の低迷は、米国のみならず、日本の経済にも深刻な打撃を与え続けている事と想像します。しかし、このような状態においても、きっとどこかに光の差す方向へと続く道が存在します。
例えば我々がジャンプをする前に、地の底に思いっきり足をつけて踏ん張ると、より高く飛ぶ事が出来るように、多くのケースにおいてピンチはチャンスです。視点を変えてみるだけで多くのプラス的な要素が隠れていることに気が付きます。

 明けない夜が無い様に、何があってもいずれ日は昇ります。それは私が約束します。

 最後に、商人舎ホームページで、私のストーリーを掲載する機会を与えていただいた代表の結城義晴先生、様々なサポートをしていただいた亀谷様、鈴木様に誌面をかりて深く感謝致します。

 この“Thank You 命をありがとう”のストーリーは一旦ここで完結いたしますが、私の夢への挑戦はこれらかも続きます。又、新しい展開がありましたら、皆様へ報告する機会を作りたいと思っております。

 私は心の目を通し、今でもあの日の砂漠に咲いていた花を見つめています。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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一年近くの長きにわたり、五十嵐ゆう子先生のWeb小説をご愛読いただき、
誠にありがとうございました。

今年1月のプロローグから始まり、エピローグまで合計40回の連載の中で
五十嵐先生が数々の困難を乗り越えられてきた姿に感動された方は数多くいらっしゃると思います。
読者の皆さまから寄せられたコメント数の多さがそれを物語っています。

今後も五十嵐先生には米国の流通ニュースを届けて頂きます。
また、新ブログなども企画中です。ご期待ください!

最後に五十嵐先生、本当にありがとうございました。
[商人舎事務局]

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〈第39話〉 エピローグ― At The Mother Of The Earth (母なる大地にて)

2010年10月28日(木曜日)
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エピローグ

 11時25分03秒

エピローグ― At The Mother Of The Earth (母なる大地にて)

砂漠に咲く花
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春の日。
長さ400キロの道のりを運転してロサンゼルスからラスベガスへと
走っていた砂漠の途中、名も無い黄色の花が辺り一面に咲き乱れていた。

“凄い!どうしてこんな雨も殆ど降らない砂漠に、あれらの花は咲いているのだろう”
そう思った途端、涙がポロポロとこぼれた。

堅く乾いた砂漠の大地を突き破り、
何百、何千、何億と咲く花は、どんな宝石よりも美しかった。
その奇跡のような光景をもっと近くで見たいと、
車を路肩に停めて咲く花々の傍らにしゃがみ込んだ。

水気のない地面を指で叩くと
“コツコツ”と堅い音がした。
しかし、私はその奥深くに蓄えられている、透明に輝く豊かな泉を想像していた。

かたわらに落ちていた小さな花びらを一つ摘まんで手の平に乗せそっと握り締めると、
気持ちが良いほど沢山の涙が頬を伝って流れた。
“こんなふうに泣いたのは何年振りだろう”

砂漠には暖かな季節が来た事を知らせるような風がそよいで、私の髪を撫でる。
それはまるで、優しい母の指先が触れているかのようだ。

“母はいつもこうして私に奇跡を見せては色々な事を教えてくれている。
だから、どんな時も私は夢を抱き、人生を諦めないで生きていける。
私はずっと母に愛されてきて、これからも愛されていく…”

「あ・り・が・と・う」 一言、一言に心を籠めて母に告げた。

長い時を経て、自分の内部で少しずつ外へ向かって流れていた川が、
ようやくその機会を与て地上へと溢れ出していくかのようだ。

     地面に零れ落ちる私の涙は
     土に浸み込み
     いつか、この場所に新しく咲く花の一部となる

  砂漠の大地に咲いてみたいと夢見たのは花なのか?
  それとも、乾いた自らの土の上に花を咲かせたいと夢見たのは大地なのか?
  ああ、でもそんなことはどちらでも良いのだ。
  この花は砂漠に咲くからこそ、こんなにも人の心を打つ
  それは、地球の生きとし生けるもの全てが起すことの出来る奇跡なのだ
  誰だって、何だって、一生懸命生きて、そして夢を見る
  いつかその夢を形にすることは可能なのだ
  Yes! Anything is possible
  自分を信じて生きていこう、そして夢を形にしていこう
  未来へと紡ぐ光の架け橋のように、
  数々の言葉が連なる金や銀の輝く糸になって私の中から溢れ出した。
  まだ何者でもなく、夢の途中を流れる一滴の水の粒ような私だけれど、
  先ず、自分の夢について語ることから始めてみようと思った。
  そしていつまでも時が経つのを忘れ、直ぐ傍らに母の温もりを感じながら・・・。

  私は砂漠に咲き誇る花を見つめている。

-完-

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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〈第38話〉  いつか全てが、実現に向けて動き出す

2010年10月21日(木曜日)
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第13章 - Dreams will go on

 11時07分51秒

第13章 ―――― Dreams will go on (夢は続く)

いつか全てが、実現に向けて動き出す

 2010年夏。有機農業を日本全国に普及し定着させ、その延長線上で総合ウエルネスセンターを設立するというビジョンを持つ南埜氏から、日本における統合医療のパイオニアである埼玉県川越市の帯津三敬病院名誉院長、帯津良一医学博士との面会を、博士のブレーンである霜田氏という方を通してセッティングして頂いた。

 帯津博士は医療の東西融合という新機軸を基に、専門的な知識の元で西洋医学にも積極的に取り入れてガン患者などの治療に当たられている。川越の病院まで通えない患者の為に池袋メトロポリタンホテル内に設けられたクリニックにて、始めて博士と会った。博士は執筆活動や取材、講演や大学での講義なども行うなど非常に忙しい方なのでお話を聞けたのはほんの30分ほどであったが、70歳を超える高齢でありながら、真摯に、精力的に患者と向き合い、現役で活躍されている先生のお姿は素晴らしかった。当の私は非常に緊張してしまい、限られた時間内で自分の言いたいことの半分も話せなかったのが残念だった。

 帯津博士は養生塾という合宿形式のワークショップも開かれ、患者達のために食事療法、ヨガ体操や気功、ホメオパシー(極度に稀釈した成分を投与することによって体の自然治癒力を引き出すという、「毒をもって毒を制す」の考えから生まれた治療法)などを取り入れ、肉体や精神の症状を緩和させる治療も提供されている。患者のQUALITY OF LIFEを重視される博士の病院には日本全国から患者達がやってくる。しかし、たった一人で診れる患者の数には限りがあり、初診を受けるまでに3ヶ月待ちと言うのは常であるそうだ。霜田氏や南埜氏はその待機患者の不安や症状を緩和させるための総合ウエルネスセンターの設立を計画しているそうだ。

 次回、帯津博士と会うまでに、私の頭の中にある構想を具体的に書きだしておけば、もっと話しやすいのではと南埜氏から提案されて、次に綴ってみた。

  ①  統合医療、患者や家族の心のケア、そして患者達の情報ネットワークに関して柔軟で先進的な米国に
     視察団を送り、持続的に情報を交換できるような関係を築く。
  ②  各専門医や病院との連携のもと、早急な対処が必要な患者には、安心して入院できる体制を整える。
  ③  遠方からの患者が家族と一緒に滞在しながら、体と心の免疫を上げるためのヨガや気効の
     ワークショップクラス、宿便を取り除き腸内をキレイにするデトックス療法、温泉療法が行える設備、
     針、マッサージ、食事療法のサービスを提供できる場所を地域活性化が必要な郊外に開設し、
     一般にも開放する。
  ④  地元の有機農家との契約栽培により、施設で提供される主な食材の殆どをローカルから調達する。
     例えばここにローカルの食料品店が関わるのも良い。
  ⑤  患者が自宅に戻ってからも持続して行える、実践可能な食生活と調理法の指導を行なう。
  ⑥  統合医療を行っているドクターを、日本中そして世界中からゲストとして招き、勉強会を実施する。
  ⑦  患者やその家族たちが常に情報を交換するワークショップの開催と、病を克服した体験者達との
     座談会を設ける。
  ⑧  メディカルソーシャルワーカーや心理専門医が出向して行なう個人カウンセリング。
  ⑨  副作用による髪の喪失等の外見の変化に悩む女性患者たちに、自然化粧品、鬘や乳癌患者用の
     特別パッド付きブラジャーの低価格提供等。
  ⑩   医師免許を持たずに、営利目的で違法に行なわれる自由診療や代替栄養食品の販売の取締り強化。
     正しい情報を求める患者や家族のための相談センターの開設

 これらのビジョンを実現するには行政団体や企業から基金の調達が必須であり、その為には提供側に利益をもたらす事も構想に入れなければ実現化は難しいと考えられる。利益が生まれるシステムが構築できれば、患者達にとって最も深刻な、経済面による負担の軽減にも役立てるのではないかと私は思う。米国では多くのメーカーや小売業が様々な難病患者の為に基金を集める活動を行なっている。

 有名なのは各企業が乳癌患者の医療面や経済面支援の為に商品を開発し、その売上利益を役立つ事が商品をピンクカラーのデザインで誰もが理解する方法である。例えば今全米に広がっているiPhoneのプロテクションをピンク色にデザインされたものは、その利益が役立つという倫理的意識で顧客をひき付けるだけでなく、見た目もポップでカワイイので人気がある。

 そして忘れてはいけないのが、日本マクドナルドの創業者である藤田氏が財団法人ドナルド・マクドナルドハウス・チャリティーズジャパンを設立し、同財団が運営する形で、難病の子供の為の病院とその親が暮らせる施設の第一号を東京都世田谷区にオープンし、氏が没した後も新しい施設をオープンしている。生前はアグレッシブな意見を発し、“勝てば官軍”などの強気の発言で敵も多かった企業家で、晩年は業績不振の責任をとった形の寂しい退任をしたが、その死後も、藤田氏が難病患者達からは神様のようだと崇められ、顧客のマクドナルドに対する信頼の裏づけの一つにもなっている背景には、氏が若き頃米国で学んだ儲けを社会に還元するというスタイルがあったからだ。

 慈善事業への出資や活動は、企業が社会や顧客の心にアピールできる大きな広告戦略になると考えられる。アメリカでは米国農務省が認可した最大の自然食スーパーマーケットWHOLE FOODSという食品小売業が今年から創業当時の理念に戻り各店舗の扉の前に“貴方の健康はここから始まる”と掲げた。彼らは、安心で健康な食品を販売するだけではなく、精力的に顧客へその重要性を教育する事への投資が、長期に渡ってロイヤリティーカスタマーを維持する要だと語っている。定期的に行なわれる自然食や健康管理のワークショップや、率先して販売される難病患者をサポートする商品のラインナップに見られるような取り組みを、日本の小売業でも更に見習って実践して頂きたいと願っている。

 それから子を持つ母としてもう一つ付け足しておきたいことがある。日本には病で両親を失った子供たちに対するケアはあっても、親が患者として闘病生活と戦う最中に、未成年の子供たちへ対する心のケアやサポートが無い。子を持つ親が癌告知を受けた時、子供達にどう接すれば良いのかと悩み、苦しむ気持は私も体験を通して痛いほど理解できる。

 昨年、偶然にも日本で久しぶりに再会した友人が癌宣告を受けた。彼には高校生と中学生の子供が二人いるのだが、迷った末に何も言わなかったと聞かされた。幸い症状は初期であり、簡単な手術と薬で大事には至らなかったそうだ。

 しかし誰もが彼のようなケースでは無い。もし自分の親が、ある日突然急に重い病に陥り、姿が変貌して、あげくの果てに他界してしまったら?何も理解できないまま愛する親を失ってしまう子供達の心には深い傷が残らないだろうか?それとも最後まで何も知らない方が、子供にとって幸せなのか?特に幼い子らには、親の病を理解するのは難しい事だと思う。

 たった5歳で母を亡くした私も、母の記憶は殆ど無いのが現実である。けれども、小学生に上がってからの記憶は、多くの人が一生覚えているはずであるし、子供は大人が思う以上に利口である。息子が小学校2年生だった時、私も迷ったが、結果的に出した答えは真実を伝える事であった。現実を受け止めた我が子は、幼いながらも私を励まそうと頑張ってくれ、その事が私の勇気となった。

 欧米の病院では、ケースワーカーやメディカルソーシャルワーカーによる患者や家族に対する心のケアが充実し、もちろん患者の子供たちに対しても十分なサポートを提供している。先ず、そういうシステムからでも一日も早く日本でスタートすることを望んでいる。家族の協力以上に、子供の理解と励ましが、患者達の心を最も奮い立たせ病と絶ちむかう強力な武器となるのだということを、私は身をもって主張する。

 最後に、このストーリーを読んで頂いている読者の皆様へ私は繰り返し伝えたい。
 現代の日本で死因のトップは癌であり、三人に一人が癌を発病している。これは癌という病気が特別な病ではなくなったのだということを示している。我々はその事を理解し、癌にかからない身体を維持する事が大切であり、又、たとえ癌になっても、恐れることなく、あなた自身が手を伸ばせば、そこには健康を手に入れる機会(HEALTH OPPORTUNITY)が存在するのだと知ってほしい。私は自らの体験を語る事と、仕事を通じて築いていく人間関係の延長線上で、そのヘルスオポチュニティーの扉が何処にあるのかを照らす灯台のようになりたい。この心の中に芽生えた灯を消さない限り、いつか全てが、実現に向けて動き出すと信じている。私の大好きな、あのディズニー・メロディの一節のように…。

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   星に願いをかける時
   君が何処の誰であろうと
   そんな事は関係ない
   君の心が望む限り
   全ての夢は叶うのだ

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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〈第37話〉 ナチュラル&オーガニック

2010年10月7日(木曜日)
カテゴリー:

第13章 - Dreams will go on

 11時59分49秒

第13章 ―――― Dreams will go on (夢は続く)

ナチュラル&オーガニック

  私の2年以上に及んだ闘病経験を振り返り、最も学んだ事はデトックス(解毒)と免疫力強化を促進する食生活の必要性である。適度な日々の運動と、繊維を多く含んだ食物を多く食べる事を心がけ、青汁や野菜ジュースを飲み、毎日の規則的な排便を行い身体に病気の素となる毒素を溜めない事(排便がそれでも順調でない場合は百毒下しなどの和漢薬を使用する事もある。)白砂糖、抗生物質や成長ホルモンを使用した動物性タンパクの摂取を辞め、高カロリーの揚げ物や甲殻類の食品を控える。弱アルカリ性の水を1日に5~8杯飲用し(可能であればペットボトルではなく、信頼の置ける会社の浄水器を自宅に設置して、そこから作られる新鮮な水が良い。無理な場合は消毒した備長炭や麦飯石で活性化した水を作る)、不足している栄養素はサプリメントや健康食品を正しく摂取することで補い、体の免疫力を向上させておく。

そして一番気をつけているのが、自然農薬により栽培された=ナチュラル&オーガニック(有機)野菜と果物を取り入れた食生活を続けることである。そして時には、コメディー番組を見たり、友人と楽しい話をして、大きな口をあけて思いっきり笑い、悩みは明日に回して十分な睡眠を取ることも大事である。

  これらを繰り返してきた事が闘病中の体調を整え、治療に効果的な状態(免疫力が高い状態)を維持し、闘病の回復後も健康的な身体を保つことの出来る要だと信じている。私は常々この生活が本当に基本的なことばかりで、特別に難しい事はないと信じてきた。だから私の闘病について知っている人を通じ、日本の方々から寄せられる質問メールにも同じことを繰り返して紹介してきた。しかし、私の提案に対して幾人もの方が同じような返信をしてきた。それは食生活に関してであった。

  「日本での食事療法はアメリカと比べれば難しい問題があります。市場で、農薬を使用しない有機野菜の数は限られ、おまけに高額で、毎日続けるのは難しいのですよ。」と。

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  確かに米国にはナチュラル・オーガニックを手ごろな価格で販売する食料品店が豊富にあり、特に私の住む周辺ではローカルの無農薬青果ばかりを集めた朝市が、毎日どこかで開かれ、多くの人で賑わっている。健康維持と有機野菜が密接に関連しているという意識は、一昔前の健康志向者向けではなく、今はメインストリームと呼ぶ主流の食品流通レベル、そして国の行政レベルまで浸透しているのだ。人種や年齢、知識に関りなく、子供から大人まで農薬の危険性や、オーガニック食品が身体に良い事は知っている。

  私自身、この食生活を長年続けてきて明らかに体感することがあるのだが、それと知らずに農薬を使用した果物を一定量食べると唇が赤く腫れてしまい口内炎になる。無農薬ではもちろん全然大丈夫なのだ。この症状は葡萄や苺を食べた際に顕著に現れるので、この2つについては無農薬でなければ最初から殆ど口につけないことにしている。

  あと、米国で無農薬が広がる原因の1つになったとされる恐ろしい話がある。通常、人は死ぬと土に帰るのが自然の事であるのだが、土葬の習慣を続けてきた米国で(州によって多少異なるが)、近代の食生活である農薬によって育てたれた青果や加工食品、ファーストフードを多く食べるのが習慣となってから、死体が土に帰らず、腐敗して悪臭を放ち、墓地の近隣に住む住人から苦情が出る事態が明るみになった。それから農薬散布してきた農家やその周辺で、障害を持って産まれる赤ちゃんが多く(3人兄弟の1人にダウン症などの障害が出る等)、癌の発生率も高いのは誰もが知る事実である。

  仕事の経験を通しても、米国の食品小売業で成功している企業のトレーダージョーズのバイヤーと話した際、今後は更にナチュナル・オーガニック食料品がコンベンショナル(従来の一般的な食料品)をおしのけ、誰もが安心して口に入れる事が出来る健康的=クリーン(農薬、化学品を含まない)なフードがマス・マーケットに受け入れられ、それが本来あるべき、ヘルシー(健全な)な食品流通の姿であるべきなのだと聞かされた。そして、米国最大の健康食料品店WHOLE FOODS MARKETは、“健全な肉体に宿る、健全な食生活=医食同源”をモットーに顧客に向けて健康的な食生活を発信している。

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  “自らが望めば容易に健康的な食生活を送ることが出来るこの国に住む人々と、日本の大きなギャップが1日も速く埋まって欲しい。無農薬の野菜や果物が、豊富に低価格で人々に提供できれば、それだけ病気にかかる人も減るのではないか?”と、願った。

  そして私の思いは、この可能性を託すことの出来る人物と繋がる事になる。その人は自然農法販売共同機構の専務取締役であり、福島県のオーガニックコーディネーター、NPO法人のオーガニック協会監事などに従事しておられる南埜幸信氏であった。

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  南氏とは静岡県で米国のWHOLE FOODSをモデルにナチュラル&オーガニックを充実させた品ぞろえを目指している食料品スーパー、静鉄ストアの米国視察ツアーで知り合った。静岡といえば、鈴木美恵さんが生前の頃、沼津で有機野菜を手に入れるのが大変なのだと話していたのを思い出す。静鉄ストアは現在、沼津にも出店しているので、彼女の思いが通じたのかなと不思議な縁を感じた。

  話を元に戻すと、南氏は元々医師になることを考えていたのが、高校二年の時に“医者は病を治すが、社会の人が病気にかからないようにすることがもっと大事な仕事である。”という事を悟られた後に、有機農業に目覚めて農学部への進学を決意された。そして“有機農業を通して病無き社会を実現する。”という志を持ち、有機農業の技術体系が構築されれば農家が安心して有機農業を取り入れ、拡大が可能であると考えて、大学時代の殆どを日本各地の自然農法を実践する家に押しかけて長期滞在された。

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  有機の青果は、自然農法の短所として収穫が変動的、形が規格外、生産者の少品種集約生産に対して、消費者は少量多品目を求め、余剰農産物の可能性等、様々な問題が多くて日本国内での拡大には超えなければいけない壁が多いのが現実であると氏は語る。しかし、生産者や仲間同士で起業するオープンマーケットでの販売や、スーパーでの有機販売コーナーを拡大したり、又は米国で成功しているオーガニック専門食料品スーパーのWHOLE FOODSのような有機メインの販売量販店の実現、生産者、加工業者、企業法人、レストラン、学校給食などとコンソーシアム(同じ目的を持ち結束する団体)を設立するなどのシステムを改革する事で、日本でナチュナル・オーガニックの食材がもっと普及すると唱えている。そして驚くべきことは、南氏の構想の中には総合ウエルネスセンターの設立(総合医療による体質改善プログラム)が含まれていたのである。私はそれを聞いたとき「やったあ!ここにも同じ夢を持つ人が居るのだ。」と、胸の高鳴りを抑え切れなかった。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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〈第36話〉 より良く正しい情報が、チャンスを増やす

2010年9月30日(木曜日)
カテゴリー:

第13章 - Dreams will go on

 10時14分45秒

第13章 ―――― Dreams will go on (夢は続く)

より良く正しい情報が、チャンスを増やす

  幼い頃から、私は世界地図を見るのが大好きだった。どこかの店で貰ったカレンダー付き世界地図を年が過ぎて色褪せてもずっと部屋の壁に掛けていた。その地図を指でなぞりながら、私は空想の中で日本から太平洋を何度も越えてアメリカ大陸へと渡ったのだ。

  そして空想は現実となり、今はアメリカで暮らし、北米のみならずカナダやメキシコ、太平洋を越えて日本まで仕事で往復しているのだから不思議なものだ。けれど、たとえ異国の空の下で暮らしていても、私の原点はあの大阪の小さな街の空の下であると信じている。だからこれほどまでに強く、私の体験から得た情報を日本にいる人々に伝え、成人病患者達やその家族を取り巻く環境において先進国である米国に、より近づける社会や医療システムの構築に貢献したいと願っている。

  欧米に比べて情報の量が少なく、癌という病に関して閉鎖的な傾向が強い日本社会では、未だに「癌=死の宣告」と思い込む人が少なくない。著名人が癌にかかろうものなら、週刊誌などのメディアは明日にでもどうにかなってしまうかのような悲劇的な記事を書く。けれど現実的には日本人の3人に1人が癌になっているという現状が存在するのだ。

  近年、日本のテレビで『癌難民』と呼ばれる人々について語られていた。彼らは医師の治療方針に納得が行かなかったり、医師に見捨てられて、数々の医療機関や代替医療を渡り歩く患者の事で、現在は日本全国に70万人以上居るという。その多くは何を信じて良いかわからなくなり、見も心もずたずたにされてしまっている。全てに絶望し、時には引きこもり、ただ死を待つだけの日々を送る人々や、仮にやっと受け入れ先を見つけたとしても、余りにも限られたその扉の前で多くの人々は成す術も無く、息絶えてしまう現実が、今この瞬間にも繰り替えされているケースがあるのだ。

  昨年のニュースでは、自らも乳癌を病んだ77歳の母親が白血病の長女を刺殺するという、非常に悲しい事件について報道されていた。背景には“グリベッグ”という高額な特効薬治療と自らの抗癌剤治療にかかる金銭的負担と将来への悲観があった。この特効薬の登場で、多くの白血病患者の生存率が上がったそうであるが、その一方で経済的な事情から治療を諦めるという無残な現実がある。 “持たない者は、生きるチャンスまで奪われてしまうのか?”それではあまりにも不公平である。誰にも相談できずに現状の全てを背負い込み、最悪な結末へと向かう人々を照らす光が今すぐ必要なのだ。もうこれ以上の不幸を生み出してはいけない。

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  米国では提供される情報量は圧倒的に多いと感じる。医師や医科大学、病院等が柔軟な考えを持ち、資本を投じて西洋医学以外の療法に対する研究を重ね、時には東洋医学的な治療法と最先端西洋医学のコラボレーションを厭わず、同時に患者の”QUALITY OF LIFE”を尊重する傾向が増加している。

  私の闘病記録で、病を宣告された当初は抗癌剤投与を拒否していたにも関らず、結局は抗癌剤を使用するくだりがある。この中で私が伝えたかった事は、進行型の症状に対しては、化学療法やその他の西洋医学的な療法が必要なケースがあり、そのあたりの決断を間違うと命とりになることがあるという事である。

  結局は患者本人と医者との信頼関係を強固に築くことが重要なのである。その為には、医師によって患者の肉体的・精神的な不安を出来るだけ取り除いてから治療に取り掛かることが先決ではないかと思う。抗癌剤の場合、投与に関して患者個々に対する緻密な計算が専門家によって割り出されることで、必要な範囲量の(与えすぎない)の治療が為されれば、病原を叩きながらも体内の免疫機関が傷つくことを最小限に抑えることが可能である。そこへ現在の統合医療的な取り組みによる、漢方や針、マッサージなどの緩和的な療法を加えれば、患者の身体的や精神的な苦痛は明らかに軽減される。

  抗癌剤は人の身体を直接滅ぼすのではなく、抗癌剤によって低下する体内の免疫力機能が低下する事で別の症状を起こし、それが原因となって臓器などの不全状態が起こる。精神的にしっかりとしていて、免疫力が十分に備わっている場合、薬の投与は効果的であり、症状を抑え、制覇することも可能であると考えられる。免疫細胞の強い若年層は病気の進行も早い代わりに、薬の効きも早く、完治率も高いのはこのためであると考えられる。それに反して、病気の進行度や高齢が原因で、体力が弱っている患者には手術、放射線、強い薬の投与は実際の効果が出るよりも衰弱の速度の方が高いケースが多い。

  私が最終的に出会った医師は、統合医療があくまでも闘病中の患者のライフスタイルをより良く維持出来るという利点に着目し、その利点によって患者や家族が闘病生活を最善の状態で過ごせるという事を理解していた。それは個々の状態に応じて対応出来するライフスタイル的治療法であり、私にとって、免疫力を高めながら病気を叩くことを可能とするチャンスとなったのだ。

  告知を受けてから、私は出来る限り多くの情報を集めようと決意した。そして自分のニーズに答えてくれる参加型の勉強会(質疑応答に力をいれた意見交換会)や健康食料品店で行なわれる情報交換、講師によるセミナーなどが豊富にある事を知った。そして私が統合医療と出会い、信頼できる医師とその治療法によって救われたのは、友人の一人が私の代わりに参加した勉強会で情報を得てきてくれたからである。

  米国にはCancer Society(ガン患者を支える会)、 Breast Cancer Society(乳癌間者を支える会)、Leukemia& Lymphoma Society(白血病とリンパ癌を支える会)などの協会団体の規模が非常に大きく、活動もアグレッシブである。テレビやラジオなどの公共電波を常時使用した広報、数多くのコンサート、マラソン、ステージ活動など通じて集められた基金で、新しい治療法開発に役立てるだけでなく、患者の財政的負担を軽減するために、治療の続行をサポートする資金の提供も行なっている。

  求めれば、与えられるという開放された状況が最も大切なのだ。
豊富な情報の提供と意見を交換出来る場所がより多くあれば、それだけ希望が生まれるチャンスが増えるし、その発信源が信頼のおけるソースであれば、彷徨える人々にとっての道標となる。

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五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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〈第35話〉 ハルカちゃんへの手紙

2010年9月16日(木曜日)
カテゴリー:

第12章 - Meet Again

 10時16分06秒

第12章 ―――― Meet Again(再会)

ハルカちゃんへの手紙

  鈴木タツヤさん、ハルカちゃん親子と一緒に沼津市にある鈴木美恵さんのお墓参りをした後、再び思い出の喫茶店でお茶を飲んだ。それから少し次の時間があったので、沼津港へと案内して頂いた。

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  車を降りて岩壁に佇むと、丁度夕陽が沈む頃で、オレンジ色に煌めく波がとても美しかった。私たち3人は暫く黙って海を見つめていた。ハルカちゃんが魚場に積んであるバケツの隙間に子猫が見えたと言うので、私は彼女と一緒にその猫を探した。そして、展望デッキに2人で登り海風に吹かれて涼んだ後、明るく無邪気なハルカちゃんと一緒に駆けっこをして遊んだ。日が暮れた頃、沼津駅まで見送って頂き、私達は笑顔で別れた。

  ハルカちゃんと過ごした短い時間の間中、私は彼女を通して幼い頃の自分の姿を見ていた。
私はハルカちゃんに手紙を書いた。

ハルカちゃんへ、

初めて貴方に手紙を書きます
先日は会いに来てくれて、そして沼津の港を案内してくれて本当にありがとう
ハルカちゃんと遊んだひとときはとても楽しかったよ
展望デッキから見た海は、キレイで雄大で
あの景色を毎日見ながら、成長していく貴方がうらやましくなりました

私が癌を患っている時、ハルカちゃんのお母さんである美恵さんと出会い
そして、美恵さんが亡くなるまでの2年間
お互いに励ましあいながらEメールの交換をしていました
私にもハルカちゃんと同じ年頃の男の子が一人いるんだよって
あなたに写真を見せましたね

私と美恵さんは家族の為にも
“絶対に生きるんだ!”
という大きな絆で結ばれていたのです

美恵さんは、「がんばりましょうね、絶対負けません。」
といつも言っていました
その言葉に、何度も何度も私は力づけられたのですよ
おかげで、私は今、生きています
だから、けしてこの命を無駄にしない人生を歩んでいこうと思います
そして、少し形は違っているかもしれませんが
美恵さんが望んでいたような
たくさんの人を元気に出来るような仕事にかかわり
一人でも多くの人の力になりたいという夢もあります

美恵さんは、そして彼女の意思は
私の心の中で今も生き続けています
ハルカちゃん、貴方の中にも生き続けています

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私も幼い時に、母を癌で失いました
子供の頃は、寂しい思いをすることもありましたが
ある日、母はずっと私の傍にいてくれるんだと気付きました
降り注ぐ朝陽に、静かな夜の片隅に
咲く花びらに、流れる川の水面に
吹く風の香りに、優しい雨の一粒に
素晴らしい自然を目にする度に
めぐり合う人々の笑顔の中に
差しのべられた手の温もりに
暗闇の中で道が見えない時、私の足元を照らしてくれる一筋の光に
そして、奇跡が起きる一瞬に
私は母の存在を感じてきました

ハルカちゃんも、必ずそんな風に感じる事が出来る日が来ますよ
それとも、もう既に感じていますか?

ハルカちゃんが
貴方のお母さんのような、素敵な女性に成長し
自分の夢を見つけ
素晴らしい人生を歩んでいく事を信じています

いつかアメリカへ遊びに来てください
私が美恵さんに見せたかった大自然の景色を
是非、貴方に見て欲しいと思います

ハルカちゃんの幸せを
心より祈っています
また逢いましょう
See you again

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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〈第34話〉 再び沼津駅へ

2010年9月9日(木曜日)
カテゴリー:

第12章 - Meet Again

 11時48分17秒

第12章 ―――― Meet Again (再会)

再び沼津駅へ

ニューヨークから戻った私は、以前から少しずつメモしていた走り書きや、日記のようなものを集めて整理した。その中には、闘病中に滞在したホリスティックセンターOptimum Health Instituteで出会ったヨハンナさんから、私へと託された彼女の闘病記録もあった。まず私は、その原稿を翻訳してみることから始める事を思い立ち、幾度か読み返した。

文字がぎっしりと綴られた4枚の用紙は薄い黄色に変色し、年月の流れを感じさせ、あの当時をこうして振り返ることの出来る喜びを私に与えてくれた。そして、まだ何処に公表する宛もないままに一章ずつ体験文を重ね、周りの人に読んでもらって感想や意見を聞いては、また書き直すという作業を続けた。

そして再び夏が着て、私は東京ビッグサイトで開催される“ダイエット&ビューティフェア”で講演をするために日本へ行く事になった。

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私が本格的に体験記を綴る作業にとりかかる前に、もう一度会っておきたい人達が居た。それは鈴木美恵さんのご主人である鈴木タツヤさんとお嬢様のハルカちゃんだった。しかし、私が知っている美恵さんの自宅と携帯電話の番号に掛けてみると、この電話番号は現在使用されていないと伝える録音メッセージが流れた。
“まさか、解約してしまったのだろうか?”

以前、鈴木タツヤさんにお会いした時に携帯電話の番号を聞き忘れた事を悔やんだ。どうしたものかと考えていると、主人が、日本のタウンページをコンピューターで検索してみてはどうかと提案してくれた。

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手元にある美恵さんの住所を入力すると、画面には違う番地であったがいくつかの商店名と電話番号が現れた。確か魚関係の商売を営なまれていた事を思い出し、思い切って苗字の一字が含まれている店へ電話を掛けてみた。

「ハイ、○○○○商店です。」
「あのう誠に恐れ入りますが、この番号はスズキさんのお宅ではないでしょうか?」

「はあ、そうです。鈴木ですが…どちら様ですか?」
「急に失礼致します。私は米国に在住する五十嵐と申しまして、鈴木美恵さんがご健在でおられた頃、2年間Eメールを交わし続けておりました。私も癌で、美恵さんとはある先生の診療所でお逢いして以来ずっと一緒に励まし合って来ました。私にも息子が一人おりまして、美恵さんのお嬢様と同じ年頃だったと思います。今回お電話差し上げましたのは、このたび又日本へ参りますので、ぜひもう一度美恵さんの墓前にお参りしたいと思いまして。」

「ああ、貴方のことは聞いていました。以前も一度息子に会われていますね?」
「鈴木タツヤさんのお母様なのですね?はい、そうです。2年前にお墓に連れて行って頂きました。」

「息子は今外出しておりますが、五十嵐さんからお電話がありました事を必ず伝えておきます。日程が決まれば教えてください。迎えに行かせますので。」
「ありがとうございます。でも良かったです。私の持っていた番号では繋がらなくてどうしたものかと思い調べたら、このお店の名前と番号が出てきたので、まさかと思い電話してみました。本当に良かったです。2年以上の美恵さんとのEメールのやり取りを全て保存しています。もしよければ印刷してお持ちしたいのですが…」

「是非お願いします。最後のEメールはいつだったのですか?」
「亡くなられる3ヶ月前の3月の7日でした。最後まで力強い文章に私も励まされて・・・、まさかそんなに悪いとは思ってもみませんでした。」

「あの子は気丈な娘でしたから、最後の最後まで。」
「日本で借りる携帯の番号が解り次第、すぐ連絡致します。」
私は最後にそう言って電話を切った。

その後鈴木タツヤさんと連絡が付き、再び沼津駅にてハルカちゃんも一緒に会う事が出来た。そして、美恵さんのお墓の前で手を合わせて私は囁いた。
「美恵さん、またあなたに逢いに来たよ。」
「ね、なんとか来れたでしょ。」

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明るく張りのある、美恵さんの声を聞いた気がした。やっぱり彼女が導いてくれたんだと思った。私は美恵さんの墓石に向かってウインクをすると、真っ直ぐに立ち上る線香がくるくると円を描いた。それはまるで、美恵さんが微笑んでいるかのようだった。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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