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Web小説 五十嵐ゆう子「Thank You  ~命をありがとう~」

Web小説 五十嵐ゆう子「Thank You  ~命をありがとう~」

〈第4話〉 母の死

2010年02月11日(木曜日)
カテゴリー:
  • 第2章 - Beginning of My Journey
  
8:25 AM

第2章 ―――― Beginning of My Journey (旅の始まり)
 
母の死
私が5歳の誕生日を迎える前に、母が亡くなった。母の命を奪ったのは進行性の子宮癌だった。娘の私が言うのもおかしいが、母は美人だったそうだ。私の勉強机の上に立てかけられた、涼しい瞳で微笑む母の写真がその片鱗を物語っている。享年たったの33歳。歳よりもずいぶん若く見えたらしい母の死に顔は、まだ少女の面影を残していた。

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 元々病弱だった母は、出血がなかなか止まらないという病を生まれつき抱えていたので、私を身篭った時も危険を覚悟しての出産だったらしい。母は私を随分と可愛がり、片時も傍を離れなかったそうだ。
しかし、物心がつき始めたばかりの幼かった私に、残された母の記憶はほとんどない。母はどんな香りがしたのだろうか、母のことを私はなんと呼んでいたのだろうか?
「ママ?お母ちゃん?お母さん?」悲しいかな、それさえも覚えていない。ただ一つ記憶に残っているのは、薄化粧を施され、たくさんの白や黄色の花々に囲まれて棺の中に横たわる母が、ディズニーの絵本に出てくる“眠れる森の美女“さながら美しかった事である。その透き通るように白く柔らかな最期の表情だけは、今でもはっきりと瞼に浮かぶ。
近年に父が心臓発作で没した折、母を弔って頂いたお坊様と再会する機会を得た。彼もまた、棺の端を小さな両手で掴み、母の死を理解できずにその死に顔を覗き込んでいた幼い私の姿を、ずっと心に留めていてくれたそうだ。
「何が悲しいて、ちっちゃな子供を残して死ななあかん仏さんと、親を亡くしたことの意味をわからへん無垢な子供を見るときほど辛いことないな。そんでも職業柄、若うして病で苦しんで逝った仏さんを仰山見てきたけれど、あんたのお母ちゃんほど安らかで綺麗な死に顔はめったに見いへんからよう覚えてるわ。」
とおっしゃった。
その言葉を聞いて、私の幼い記憶は決して誇張されたものではなく、見たそのままの母の顔を覚えていたのだと確信出来て嬉しかった。
現在よりも一層『死』に近い病と闘い抜き、相当に苦しんだはずの母の死に顔が、なぜ印象に残るほどまでに美しくありえたのか?
私が成長したある日、母代わりとなって育ててくれた祖母が伝えてくれた母の言葉がある。もはや為す術がなく、死が目前に迫り、モルヒネ注射で痛みを抑えなければならないほどの状態で、母はこう語ったそうだ。
「体中が耐えようもなく痛い、こんな酷い苦しさを味わうくらいなら、ただただ早く終わって欲しい、もう死んでしまいたいと幾度となく思います。でも、幼い娘を残していかなければならないことは、その痛みの何十倍もの力で私を苦しめます。私がこのまま死んでしまって、まだ幼いこの子はどのくらい私のことを覚えてくれるのでしょうか?母がいたということすら、忘れてしまうのではないでしょうか?何よりも辛く悲しいのはその事です。」
彼女のそんな思いが天に伝わり、最後に奇跡を起したのだと私には信じられる。母は、幼い私が決して怖がることのないよう、そして美しい母の面影を心に刻むことができるよう、その最期の瞬間を穏やかに終えることが出来たのだ。
そして、更なる母の願いも叶えられた。それは私が大人になって随分後に気付くのだが、生涯私の魂に寄り添い一心同体となって私の人生の道しるべとなり、私が生きる限りGuardian Angel(守護天使)として、私の傍らでいつも守り続けてくれているのだ。今の私にはそれがしっかりと感じられる。

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 そして成人した私は、留学の為に米国ロサンゼルスへ渡った。そこで今の主人である在米日本人の彼と出会い、3年間の付き合い後に結婚して、子供に恵まれない5年が経ち、不妊治療と3度の流産の末、ようやく一人息子を授かった。
『奇跡』と言うものを、もし形で現すとすれば、私は『命の誕生』こそ、まさしくそのものであると思う。
母体から取り出されたばかりの、まだヌメヌメとした体液で覆われた産まれたばかりの赤ん坊は、輝く光の衣を纏ったように神々しかった。それを見た瞬間、産みの辛さも痛みも全て消えてしまい、今まで味わった事の無い幸福感を感じた。
看護婦さんに体を拭いてもらい、真っ白なコットンのおくるみに包まれて、私の腕に手渡された時、息子は泣くばかりか、私の顔をみてニターと微笑んだ。
私は驚いて、産科の先生に問いかけた。
「先生、今 この子今笑いましたよ。見えているんでしょうか?」
「産まれたばかりの赤ちゃんは凄く近視なのですが。ぼんやりとなら見えているのではないかな。外の世界へやっと出てこれて嬉しいんだね。“ハイ、マミー宜しくね”と貴方に挨拶してるんですよ」
私はその愛おしい笑顔に、心からこう返した。
「うちへ来てくれて本当にありがとう。大切に、大切に育てるからね。」

我が子をこの手に抱き、一番最初に願ったこと
“せめてこの子が私の事を、母と呼べるまで生きていたい”

     我が子が初めて私を『マミィ』と呼んだ時、心から願ったこと
“私をそう呼んでいた事を、この子がずっと覚えていられるほど
成長するまで生きていたい”

     そして、我が子が6歳だった2002年の4月16日
癌を宣告された私が、天を仰いで誓ったこと
“決してこの子を母が無い子にさせはしない
私は死なない
いつまでもこの子の為に、生きていくんだ”

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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〈第3話〉 下町人情に育まれた少女時代

2010年02月04日(木曜日)
カテゴリー:
  • 第1章 - My Sweet Hometown
  
2:51 PM

第1章 ―――― My Sweet Hometown(愛しき我が街)

下町人情に育まれた少女時代

 関西の台所と言われる黒門市場は、どこよりも新鮮で高級な食材が手に入る。特に魚屋と活けふぐ専門店が多く、年末になると買い物客でごった返し、猫の手も借りたいほど忙しくなり、今でも東京のアメ横と並んでテレビ中継されるほど、歳の暮れの賑わいぶりは大阪名物のひとつでもある。大晦日の2日前になると、商店主らに頼まれ、近所の子供達は売り子として店を手伝う。これは30年以上前でも破格の高級アルバイトで、1日1万円と御祝儀をプラスした3万円以上の報酬をたった2日間で貰った。当時そんな大金を稼ぐことが出来たのは、北新地にあるクラブのホステスさん位だったと思う。それを中学生になったばかりの子供が、数日で手に入れることが出来るのだから断る理由が無かった。

 大晦日の店じまい後には、活ふぐや鯛の塩焼き、刺身の盛り合わせ、ブリの味噌漬け等と、店の残り物を欲しいだけ頂けるので、我が家の正月三が日はかなり豪華な食卓になった。私は売り子だけでなく、股がると足が地面に届かない大人用の自転車に乗り、千日前や染衛門町の料亭へ配達をしたり、時には、早朝に大型トラックへ乗せられて、仕入れをする為の中央卸売市場に連れて行ってもらった。そこでとびきり新鮮な魚と、暖かいご飯でにぎった立ち食い鮨をご馳走してもらったことは大人になっても忘れられない。柔らかな酢飯と、歯ごたえがあり脂がのった生魚を、プラスチックの皿に注いだ醤油に浸して一口頬張れば、口の中で溶けていくようで、湯気で目の前が霞むほど熱くて濃い味の赤出し味噌汁を飲めば、極上の幸福感に包まれた。何を食べても抜群にうまくて、寿司はどんどんお腹の中に収まっていく。
「おっちゃん。めちゃくちゃおいしいなあ。あー私いままで生きてきて、ほんまに良かったわ。」
「面白いこと言う子やで。あんたはまだたいして生きとらんやないか。ええからお腹一杯になるまで仰山食べて、もっと大きなり。ほんでしっかりおっちゃんの店手伝ってや!」
と言うと、おっちゃんは自分の分も私に差し出してくれた。早朝から、あんなにたくさん食べた事は後にも先にも無いだろうと思う。仕事用の防水ジャンパーを着た人々の、肩と肩がぶつかりあう混みあった店内は酢の甘い匂いに包まれて、真昼間みたいな活気だった。客の出入りが激しいため、ほとんど開けたままの入り口から、時折流れ込む外気は身を刺すように冷たかったが、そんな事も気になら無い程、本当においしい寿司だった。食いしん坊の私は、様々な場所で名物だといわれる味を探し、ずいぶん色々と食べてきたと思うのだが、あの立ち食い寿司に勝るほどの寿司に出会ったことが未だかつて無い。

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 私はこのアルバイトのおかげで、既に中学2年生で魚を3枚に下ろす技術を身につける事が出来た。それでも手や体には魚のにおいが染み付き、凍えるように冷たい水を始終使うので両手はアカギレだらけになり、中学から高校まで、毎年このアルバイトを自ら望んで引き受けていたのは、女の子で私ぐらいだったかもしれない。昼の賄いは、出前のうどんと寿司の盛り合わせに、店でさばいた新鮮なお刺身と、毎日が豪勢な献立だった。私はそれらをパクパクとお腹一杯食べて、残りは必ず家に持ち帰った。いつもやせっぽちのくせに大食いな私を周りの人が見れば、家で十分に食べさせてもらえてないのでは?と勘ぐられていたかも知れず、無知な子供とはいえ、今思い出すと恥ずかしい。もう少しお上品に振舞い、たまにはご飯のお代わりもやめて、時には遠慮すべきだったかなと、ちょっぴり反省するが、後の祭りである。

 アルバイトで稼いだ大金は、貯金もせずに洋服や自転車等を買い、全て自分のために使った。けれども、小さい体で一生懸命働く私を見て、これも又、家計を助けていたのだと誤解した人も居たらしい。とすれば私は黒門市場中の人から、ドラマのおしんの如く、家族のために幼い頃から苦労をしてきた健気な少女と、噂されていたのだろうか?

 小学校・中学校と同級生だった友人の親で、今も元気に魚屋を営む清水のおばちゃんを尋ねたら、ついでに幼い頃からお世話になった隣の漬物屋のおばちゃんも出てきて大歓迎をうけた。
「あんたはお母ちゃんを幼い頃に亡くして、ほんまにここでは苦労したなあ。おばちゃんらは、いっつもあんたのこと可哀想やな、幸せになって欲しいわって話してたんやで。
いやあアメリカに住んではんの、美容家と通訳さんやってんねんて。英語も話すん?
ええ、あんた、立派なお仕事して、結婚して、子供にも恵まれて、良かったねえ夢がかなって。この町を出て行って、とうとう幸せになったんやね。ほんまにおばちゃんは嬉しいわあ。」
と言って涙ぐみながら、私が話を差し挟む一瞬の隙も相手に与えない、見事なまでの猛烈スピードでしゃべり続けていた。
そのおばちゃんの言葉を聞きながら、心の中では ”エー!そうなん?” という疑問の言葉を投げかけていた。子供時代に私の夢の話などおばちゃんに語ったことは無く、悲しみや、嫌な経験が全く無かったとは言えないが、まわりが想像するほど不幸な子供時代だったなどと考えた事も無い。
喧しいほどの賑やかさと、有り余るほどの優しさで私を包んでくれるこの黒門市場が大好きで、だから今でもホームシックにかかるくらい帰りたい場所なのである。

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 他人の思い込みとは勝手なものである。
まあ、おばちゃんらが長年そう思い込み、今の私を見て喜んでくれているのだから、例え一方的にでも「良かったわ、おばちゃんも嬉しいわ」と朝の連続ドラマの最終回を見た時のような感動に似た気分を味わってくれるのなら、まあそれも“エエヤン”という気持ちになった。
そやけど、おばちゃん。あんとき話せへんかったけど。(というか、おばちゃんの話に入る事が出来なかったという方が正しいかな)ほんまはもっと色々あってんで。おばちゃんが聞いたら、もうちょっとだけ『良かったなあ』って言うてくれはるかも知れへん、私の夢探しのお話を、今から聞いてくれる?

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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〈第2話〉 大阪黒門市場と祖母

2010年01月28日(木曜日)
カテゴリー:
  • 第1章 - My Sweet Hometown
  
2:50 PM

第1章 ―――― My Sweet Hometown(愛しき我が街)

私のルーツ、大阪黒門市場へ

 幼い頃に母を亡くした私は、父方の祖母に育てられた。父にとって、仕事をしながら男手ひとつで娘を育てることは容易では無かったのだ。母の死後、同居していた祖母が私の面倒をみることになった。そして、私が十九歳になった春に祖母は他界した。

2年前、祖母と一緒に暮らした思い出深い大阪の黒門市場へ、久し振りに訪ねてみた。
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色々な食べ物の匂いがする市場には、魚屋、肉屋、かしわ(鶏肉)屋、八百屋、豆腐屋、お菓子屋、乾物屋、漬物屋、味噌屋、鰻屋、卵焼き屋、手作りカレー屋が立ち並ぶ。早速、私が大好物である揚げたてのコロッケを昔から知っている店で買い求め、舌を火傷しそうになりながら食べた。アツアツの衣を冷ますために息を吹きかけ、香ばしいサクッという音を立てて口に含むと、柔らかなジャガイモの食感と玉ねぎの甘みにピリッとした胡椒の刺激がたまらなく絶妙だ。私はいつもこのコロッケを食べると、思わずニターと微笑んでいた子供時代の自分を思い出していた。それから果物屋さんの店先で売られている、新鮮な果物を目の前でカットしたものに、氷と牛乳を入れてミキサーにかけて作る一杯100円のミックスジュースを何十年ぶりかに飲んでみた。冷たく、程よい甘みだがそれでいて濃厚な味は、昔とちっとも変わらず、どんな上等のジュースよりもおいしいと思う。もっとゆっくりと味わいたと心では思っているのだが、どうしても途中でやめることが出来ずにごくごくと飲んでしまい、あっと言う間に無くなるのが少し悲しくなってしまうほど美味なのだ。
これは余談だが、実はそのミックスジュースを飲む前に、私はメロンジュースも味わう羽目になったのである。ミックスジュースを一杯買うつもりで店先に並び注文しようと思った矢先、私の前列で先にメロンジュースを注文して、それを一気に飲み終えた見知らぬ中年の女性が、次の番である私に話しかけてきた。
「あー美味しかったわぁ、このメロンのジュース!お姉ちゃん何飲みはるの?あんたメロンジュースがめちゃくちゃ美味しいから、今日はミックスジュースにせんと、メロンジュースにしとき!」
彼女はそう言って私をじっと見詰めた。その熱い視線に押されて、思わず、
「メロンジュース下さい。」
と口に出してしまった。
私に無理やりメロンジュースを勧めた彼女が、満足したように立ち去ったのを見届けてから、一部始終を見ていた店子の若いおねえちゃんに
「あのう、悪いねんけど、ミックスジュースも一杯貰えますか?」
と注文した。
店子はケラケラ笑いながらジュースを作ってくれた。まるでコントの一場面の様である。
このお節介なおばちゃんのことを関西では“でしゃやきなおばちゃん”と呼ぶ。私は、そんな地元ならではの“でしゃやきなおばちゃん”に遭遇し「ああ、ほんまに大阪に帰ってきたなあ」という実感が沸いてきて、なぜだか嬉しくなった。
確かに、おばちゃんのおっしゃるとおり、メロンジュースも美味しかった。

 冷かし客の如く、八百屋や魚屋に並ぶプラスチックの薄いカゴに盛せられている商品を値踏みしながらゆっくりと歩いてゆくと、子供の頃、度々晩御飯のおかずにのぼった屋台で売られている天麩羅屋を見つけた。その店先に並ぶ、ちょっと身体に良くなさそうな程の鮮やかな色をした紅生姜(しかし、癖になるほどおいしいのだ)イカやサツマイモのてんぷらを眺めていたら、不思議に胸がキュンと痛んで、懐かしさが一気に込み上げてきた。

     賑やかなオーケストラさながら
あちらこちらで配達の自転車が急ブレーキをかけるキィーという摩擦音
店先や魚を洗うためにホースから流れるジャバジャバという大量の水音
ガマ蛙の鳴き声の如く地面のそこから“安いで、安いで” と繰り返しながら
魚屋のおっちゃんがバリトン声で唸る客寄せの声と
高音ソプラノで歌うようなおばちゃんの笑い声がシンクロナイズする
魚の生臭さと、鱧とうなぎの醤油だれが程よく焦げた香ばしさに
色んな食べ物の匂いがごちゃごちゃに混ざった空気が
市場中に漂う
多少はきれいになったけど
基本的には昔と殆ど変わらないこの空間に佇むと
私はたった一秒で子供時代にタイムトリップする 

母代わりの祖母は、不屈の精神を持つ明治生まれの女性
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 私の祖母は“ハナ”という名前だった。幼い私の母代わりとしての責任を担った、明治生まれの祖母は、愛情をもって私を厳しく育ててくれた。彼女はその名の如く花が大好きで、家の物干しに小さな花壇を造り、四季折々の草花を植えていた。お転婆で叱られてばかりいた私は、祖母に褒めてもらいたくて、学校から戻ると漏斗に水を一杯汲んで、土や花に与えた。
その花壇に、祖母と二人で植えた黄色いフリージアの花が咲いたある日、彼女と話した事を思い出す。
「おばあちゃん、今年もまたフリージアの花が咲いたね。キレイやなあ」
白く粉をふいた擦り傷だらけの膝小僧を両手で抱いてしゃがみ、黄色い花びらを指先で突きながら花を覗き込んでいる私に祖母が言った。
「また咲いたんと違うで、新しゅう咲いたんや。今年の花は去年とおんなじように見えるけど、去年の花は去年の花で、今年は今年の花や。去年のとは一緒にせんといて!今年の方がもっときれいやろって言うてはるわ。花の商売はきれいに咲くことで、それなりに努力してはんのや。」
祖母のウイットに富んだ発想が面白く、子供心に納得したものである。
しつけに厳しく、怒る時は徹底して恐かったが、常にユーモア一杯で色んな事を知っていた祖母。若い頃は新聞記者になることを夢見ていた彼女は、毎朝欠かさずに日本経済新聞、朝日新聞と毎日新聞を大きな虫眼鏡で片端から読破していた。昭和四十年代には、まだ珍しかったマクドナルドのビッグマックとビーフステーキをたまに食べるのが楽しみで、ズボンを履き、ショートヘアーで銀縁めがねをかけ、いつも急ぎ足で颯爽と歩いていた祖母。
商人の町である大阪の道修町で、沢山の奉公人や女中を抱える大店に若くして嫁いだ祖母は、我が子のオシメさえ自分で代えた事が無かったと言う程の奥様暮らしをしていたそうだ。しかし、彼女の伴侶である祖父が戦死し、大阪大空襲で3回も焼きだされて、財産の全てを失い、父の妹で私の叔母にあたるべき人であった娘を交通事故で亡くすという不幸が続けざまに起こった。
けれども、どんな困難に襲われても、いつも前向きにしっかりと背筋を伸ばして笑顔を忘れずに祖母は生きた。子供時代の私は、母がいないことで悲しい思いをした事もあったが、この祖母に母代わりとして育ててもらった経験があったからこそ、どんなに辛く大変な出来事に直面しても、それを乗り越えて強く生きていかなければ祖母に恥ずかしい、と思う精神を養うことが出来たのだ。
私が誕生したという知らせを聞いた時、 一人娘を亡くしてから女の子の孫を待ち望んでいた祖母は、病院に喜び勇んで駆けつけたそうだ。生まれたての私を見るなり
「まあ、なんと鼻べちゃな娘!」
と大声で言って、周りの看護婦さんを爆笑させたらしい。
そんな私に、
「女の子の色白は七難隠すから、表へ出るときは日焼けをしないために帽子を被るように」
と厳しく言いつけ、週に一度は卵で髪を洗い、洗顔は石鹸を使わずに鶯の糞で出来た粉で、そして身体は糠袋で洗うように教えてくれた。
泣き虫だった私に、
「アホやなあ、泣いたら不細工やで。あんたは別嬪やないから、いつも笑ときなさい。あとはおいしいご飯が作れること、そうすればきっと幸せになれる」
と言っては、幼い頃から料理の手解きをしてくれた。
子供の頃から大人になるまで続いている私の放浪癖と極度の方向音痴は、ずいぶんと祖母に迷惑をかけたらしく、彼女の買い物に付き添っては、いつの間にかふら~とどこかへ逸れてしまうので、私は迷子の常習犯であった。交番で保護され、平気な顔をして警官に差し出されたジュースを飲んでいた私のことを、「人に心配掛けて」と叱りながら、祖母は何度も迎えに来てくれた。プロレスと相撲が好きで貴ノ花関(亡き二子山親方)が勝つと、普段は滅多に食べられない天麩羅うどんをご馳走してくれた。
従って、幼い私にとっての大相撲は、その内容よりも祖母の贔屓力士の勝ち負けの結果がかなりの重要度を占めていたので、貴ノ花関以外の力士の名前は殆ど覚えていない。
祖母は七十歳を過ぎて、大阪万国博覧会の区画整理で立ち退きとなったビジネス旅館をたたみ、黒門市場の傍でお好み焼き屋を始めた。彼女は小さなビルの模型を買って、それを神棚の隣に置き、いつかお好み焼き屋でビルを建てるのだと言っていた。私はそんな祖母を愛し、心から尊敬していた。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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五十嵐ゆう子プロフィール

食品小売業・ ウェルネス(健康食品)・ビューティ の通訳、コーディネーター、 翻訳・コピーライター。

CMP JAPAN社の美容専門誌"ダイエット&ビューティ”に米国の美容情報記事を2005年より毎月連載中。
2008年、2009年と2年連続で東京ビッグサイトで開催の "ダイエット&ビューティ”展示会にて講演。

カリフォルニア州&ネバダ州公認エステティシャン・ライセンスを所持。
美容展示会などで講演やデモンストレーションを行う。

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