商人舎

Web小説 五十嵐ゆう子「Thank You  ~命をありがとう~」

Web小説 五十嵐ゆう子「Thank You  ~命をありがとう~」

〈第7話〉  癌告知

2010年03月04日(木曜日)
カテゴリー:
  • 第3章 - Open the Door of Health Opportunity
  
10:15 AM

第3章 ―――― Open the Door of Health Opportunity (健康を得るために開く扉)
 
 癌告知

「検査の結果が出ました。小腸のリンパ節に付着するように約8センチ大の腫瘍が出来ています。リンフォーマ(悪性リンパ腫瘍)とみてほぼ間違いないでしょう。他の臓器にも付着する可能性がある事と腫瘍の位置から考えても、放射線や切開手術を行うことは難しいと思われるので、CHOP療法という、4週間ごとに6クールの抗癌剤とライトキシン(抗リンパ癌)を投与する治療方法でいきます。副作用として、頭髪が抜けるケースが一般的です。その準備をしてください。」 

 突然の告知だった。
欧米では、通常これらの告知は本人に行われる。事務的に語られる医師の言葉を聞きながら、心理学の授業で以前学んだことのある“癌宣告を受けた人間が経験する動揺や、否定の感情変化のステージ”を思い出し、私はそんな風には感じていないなぁと考えていた。それどころか、逆に医師が述べるそれらの詳細が何の障害も無しにスーと私の頭に入っていった。

 が・・・・しかし、“抗癌剤投与”という言葉に対しては強い拒絶を感じた。そして、医師の話が終わるや否や、ほぼ反射的にこう言い返した。
「あのう、もともと自分の体の中で出来たものですから、自分の体で治せないはずがないと思うのです。出来れば、化学療法をすぐに始めるのではなく、自然の療法で治療を行ってみたいのですが・・・」
それまで坦々とした口調だった医師は急に眉を吊り上げ、半場怒ったような口調で私の言葉を遮ぎった。
「とんでもない。代替療法(通常医療の代わりとして行う民間療法等の他の治療法)なんて全くもって時間の無駄!私はそんなものは一切信じません。今現在の貴女の状況には、 抗癌剤以外の治療法はない!貴女の保険会社には、既にこの診断結果を今日ここへ来る前に連絡を取り、治療を開始して良いという彼らの了解も得ています。」
“私への宣告より、保険会社への報告が先なのか?” 少し腹が立った。
「本日は、このまま最初の抗癌剤投与を行う準備も出来ているのですよ!あなた、助かりたいのでしょ?」
その畳み掛けるような口調にもめげず、私は続けた。
「では、せめて抗癌剤投与に入る前に、別の病院の専門医にセカンドオピニオン(他の医師の意見)を訊きに行くチャンスをください。それくらいの猶予はありますよね?」
「セカンドでもサードでも訊きに行きたければそうなさい。でも3ヶ月以内に治療を始める事を強く勧めます。オーケー!じゃあ今日はさようなら。」
医師の苛立たしい感情がヒシヒシヒシヒシと伝わってきた。私は彼に頭を下げ、検査の詳細が書かれた用紙を受け取って、診察室の外へ出た。

待合室の長椅子には、医師の診断を待つ患者達が窮屈そうに並んで座っていた。それを横目に見て“あぁ、先生は忙しいのだ、一人一人にとっては人生がひっくりかえる程の癌告知も、ここでは日常茶飯の事なのだ。”とか、某コーヒー店の山盛りホイップクリームにキャラメルシロップが滴るようにかけられ、いかにも体に悪そうな特大ドリンクを啜りながら、面倒そうに次の患者の名前を呼ぶ受付嬢を見て、“この彼女やその家族が、いつか患者としてここで名前を呼ばれる側に立った時は、どんな気持ちになるのだろうか?”等と、そんな事を考えながら屋外へと出た。

 外は2~3日続いた雨が上がったばかりで暖かな陽が射し、緑の木々に煌く水滴が美しかった。私は立ち止まり、暫く足元の小さな水溜りを見詰めていた。“映画かTVドラマなら、こんな時は多分泣いてしまうんだろうな。”と思った。しかし、私の心は不思議なほど静かで、一滴の涙さえ流れてこなかった。
ふと、自分の内から声が聞こえた。『がんばれ、負けるな!』
幼い頃から、泣き虫で臆病なところもある私が、突然自分に降りかかった過酷な運命にうろたえる事も嘆き悲しむ事もなく、まるで誰かに強く抱き支えられているかの如く、そこにしっかりと立っていた。

 携帯電話を取り出し、仕事中の主人に電話を入れると、留守番メッセージが流れたので、先ほど病院で告げられた内容を出来る限り正確に伝言に残した。主人に直接繋がらなかった事にホッとした。心配そうな身内の声を聞けば、心の糸が切れる気がしたからだ。次に“シティ・オブ・ホープ”という米国癌研究機関で著名であるセンターに番号案内で繋いでもらい、早速セカンドオピニオンのアポイントメントを入れた。

それからは息つく間もなく、私の病名についての関連情報をパソコンで検索したり、本屋や図書館に通って、自分の症状に関する書物を片端から読み漁った。友人や知り合いの伝手を辿り、様々な医学博士や代替療法の医師と話す機会を得たりと、とにかく出来得る限りの情報を収集した。
“自分の病気について学ぶ事。” それがあの時、先ず私が取った行動だった。今考えると、自分をしっかり強く支える為に、私の自己本能がそのように導いてくれたのだと思う。

数日後、シティ・オブ・ホープで受けたセカンドオピニオンでも、最初の医師とほぼ同じ言葉を伝えられた。
「あなたの悪性リンパ腫瘍のタイプには、抗癌剤が一番適した治療法です。1日も早く抗癌剤治療に取り掛かってください。さもなければ癌はどんどん進行しますよ。このまま放って置けば短くて1年、遅くても2年以内に命を失う事になるかもしれません。」

A forest path in Redwoods State Park, California.

私の命に、期限がつけられた。

 ショックだった。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

コメント (2)

〈第6話〉  発病、そして人生の大いなる転機

2010年02月25日(木曜日)
カテゴリー:
  • 第2章 - Beginning of My Journey
  
10:50 AM

第2章 ―――― Beginning of My Journey (旅の始まり)

発病、そして人生の大いなる転機

 年が明けて、頻繁に胃の痛みを感じ、血尿が止まらず微熱が下がらない日があった。
私は相変わらず中国系の旅行会社で働いていたが、仕事への熱意は持てず、毎朝出勤する事が苦痛だった。体の不調について多少は気になったが、数年前に仕事で忙しかった際にも血尿が出た事があり、検査を受けたが特に異常は見つからなかった。従ってこれは絶対にストレスのせいだと信じこんでいた。
その頃、朝から憂鬱になりがちであった自分自身にスタートをかけようと、簡単なストレッチ運動と腹筋を毎朝行ってから家を出るようにしていた。そしてある日、いつものように腹筋をしていたら、左肋骨の真下あたりに瘤の様なしこりがある事に気がついた。「エッ、何?」と思い、何度もそのあたりを触ってみたリ、押してみたりした。その塊自体に痛みは感じなかったが、硬く、妙な圧迫感を少し感じた。胸騒ぎを感じながら慌てて病院へ行き、検査を繰り返した結果が悪性腫瘍、すなわち『癌』だった。
母と母方の祖母を子宮癌で亡くしていたので、いつか自分も同じ病で死んでしまうのではないかというトラウマをずっと昔から抱き、夢でうなされることもあった。癌の種類は違ったのだが、病の宣告を受けた時、「とうとうきたか。」と思った。その時までの私はまるで刑の執行を待つ罪人の心境だった。
けれども、一旦自分が癌になったと認識した直後、長い間を通して私に付きまとっていた“いつか癌になるかもしれない‘”という恐怖感が一瞬にして消えてしまった。
その後、私は様々な体験を経て、病と戦い、夢を抱いて新たな人生を歩むことになる。
英語に『OPPORTUNITY (転機)』 という言葉があるが、まさしく私にとっての癌宣告はBig Opportunity(大いなる転機)であり、私の新たなる人生の旅はそこから始まったのだ。

100225_open_door.jpg 

************************************************************************************

次に続くメモは、私が闘病中にロサンゼルス在住のクロスカルチャー・コンサルタントで臨床心理学博士、そして自らも乳癌を克服したと言われる三浦たつ子先生(Dr.タツコ・マーティンとして日本でも著名)よる代替医療勉強会へ参加した際、講義の内容をまとめたものである。

成人病を告知された患者たちに共通する生活習慣
1.仕事の鬼だった。(食事や睡眠や休みを無視して仕事中心の生活)。
2.コーヒーやアルコール、煙草の大量摂取と肉中心の食生活。
3.睡眠不足。(病気にならないためには最低6時間以上必要)。
4.ストレスを常にかかえる環境にいる。
5.恨みや僻み。怒りなどのネガティブ(マイナス)思考を抱く。
6.悲しみ、身の回りの不運において自己を責める。

成人病の完全克服に成功された方々に共通する生活習慣
1. 決死の覚悟をして生活スタイルを一変させる。
2. 周りの助け(友人、家族、恋人、両親、他界した人、守護霊などを含めて)を得る。
3. 落胆した気持ちを持たず、絶対に治るという確信を持つ。
4. 自分の精神をポジティブに保つ(自分に優しく、自分を責めない)。
5. 日常生活でストレスになる人を遠ざける(自分や周りのエネルギーを吸収し、暗くさせるような人と付き合わない)
6. 穀物、菜食中心の食生活と良い水(ミネラル豊富)を1日にコップ10杯以上飲む。抗酸化食品を摂り、体内の解毒を行う。
7. 自分の第6感(直感)に従う。
8. 医者の言うことを聞かない。
9. 1日のうちに必ずリラックスする時間を見つけ、精神をゆったりさせる事を実行する。(これは治癒の上で一番大事)。
10.周りのモラルサポートを十分に受ける。(グループセラピーや勉強会などへの積極的な参加)。
11.自分の病気、そしてそれを教えてくれた体に感謝の気持ちを持つ。
12.自分の病を大袈裟にしない。
13.周りの人へ優しく接する。(常に愛をもって接する)。
14.目標、生きる目的を見つける。
15.神様や太陽、自然の大地、宇宙などの霊的なものを崇め、助けを求める。
16.健康回復に向かい、決めたことを実行する。
17.病に焦点を置かない。病自体を治すと考えるより、如何に健康な肉体を得られるかと言う事に焦点をおく。
18.「ノー!」といえる強さを持つ人間になる。我慢をしない。
19.毎日運動をする、柔軟体操が一番大事。(リンパを刺激する)。
20.十分な睡眠をとる。(1日8時間以上)。

また次は、Dr. Larraine Day(www.drday.com)という癌生還者の女性外科医が、自身の講演会や著書等で述べている要点である。
彼女は進行性乳癌の宣告を受け、発見時には腫瘍はすでにグレープフルーツ大の大きさに成長しており、肺への転移もあったが、手術や放射線、抗がん剤等の西洋治療を一切受けずに自然療法で自らの病を治癒した後、代替医療の第一人者となった人物である。
彼女の経験に基づく10の法則を下記に記すが、いくつかは上記のリストと重複する。

 1. 植物性プロテイン、水、野菜、果物、穀物、青汁を飲む等の食生活を中心にし、動物性の蛋白質の摂取は一切止める。
2. 日に3~5回の運動をする。(柔軟体操やストレッチ)。
3. 良い水を1日にたくさん飲む。(病気の時20杯、健康回復時10杯)。
4. 適度の日光浴をする。
5. コーヒー、煙草、酒、薬を一切取らない。
6. 新鮮な空気を吸う。
7. 十分な休息、睡眠をとる。(夜は9時半~10時の間に就寝、朝は6時起き)。
8. 完治を信じる心を持つ。
9. あらゆることへの感謝の念を持つ。
10.奉仕の精神を持つ。

そして、これは私の周りで癌を克服した人々に聞いた言葉。
 
“死にたくない”と思うのではなく、“生きたい”と思うこと。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

コメント (1)

〈第5話〉  米国同時多発テロの経験と病んでいった心と身体

2010年02月18日(木曜日)
カテゴリー:
  • 第2章 - Beginning of My Journey
  
10:18 AM

第2章 ―――― Beginning of My Journey (旅の始まり)

米国同時多発テロの経験と病んでいった心と身体

 2002年に癌を宣告される前の年まで働いていた日系旅行会社のロサンゼルス支店で、私はオペレーション主任という役職に就いていた。小さい会社ながら部下を抱える立場上、責任は重かった。人一倍、負けん気が強かった私は、風邪を引いても休みを取らず、体を酷使して働いていた。それでも仕事が好きだったし、女性ながら会社のトッププレイヤーとして働くことにプライドも持っていた。家に帰れば子供の世話と家事をこなし、寝る時間も惜しんで働く主婦を十年近く続けた。
仕事は非常に忙しかったが、結果として2倍や、時には3倍のボーナスを年の暮れに貰えるので遣り甲斐を感じていた。私の有給休暇は1ヶ月以上も溜まっていたが、特に休みを取りたいとも思わないほどに働く事が楽しかった。

 そして、2001年の9月11日。あの忌まわしい米国同時多発テロが発生した。

100218_9-11.jpg

 当時、米国に在留していた殆どの人がこの惨事の瞬間に、自分が何処で何をしていたか克明に覚えているという。それほどショッキングな、脳裏の奥にべったりと張り付くような出来事だった。
その日の朝、私は仕事へ行く準備をしながら、コーヒーを片手にテレビのスイッチを入れた。 モーニングニュースを見るというよりも、車で通勤する私は、毎朝の交通情報をチェックしてから出掛けるのが日課だった。
突然、画面には飛行機が衝突して煙があがっている、どこかで見たような建物が映し出されていた。“え、事故?これってもしかしてニューヨークの建物・・・” と思って見ていると、続いてもう一機が隣の建物に激突した。レポーターの悲鳴が上がる。

100218_9-11twintower.jpg

 私の携帯電話が鳴った。会社のスタッフからだ。
「ゆう子さん。今、テレビ見てる?」
「さっき、スイッチを入れたところ。一体何が起きているの?」
「ニューヨークのツインタワーに、飛行機が続いて衝突したでしょ?」
「うん、見た。」 そう言った時、背中に冷たい汗が流れた。
“私は今、夢を見てるのか?違う、夢じゃない!” 現実に、何かとても恐ろしいことがアメリカを襲っているのだと察していたが、それでも頭の中は完全に混乱状態だった。
「ゆうこさん、もしもし!聞こえてる?会社どうしよう、行った方がいいかな?」
「え?ああ、、、うん。とりあえず私は今から出るよ。動いているツアーのことも心配だし。」
その年の9月は、例年に無い程忙しく、我々が手配しているツアーの団体客は、ほぼ全米の主要都市に散らばっていた。
“各地の空港はどうなっているのだろうか?暫くの間は飛行機が飛ばないだろう。もし移動が一日ストップしたら、ホテルやレストランの手配が混乱してしまう・・・”
頭の中でそんなことを考えながら、会社への道のりを運転していた。
そこへ、別の知り合いからの電話が入った。
「今、何処にいるの?」
「車の中。」
「ああ、じゃあテレビ見てないよね?」
「さっきまで見ていたよ、ニューヨークのツインタワーに飛行機が二機突っ込んだのを。」
「今、その片方が崩壊した。同時多発テロだってニュースで言ってる。」
「嘘・・・」
その時、カーラジオが入っていない事に始めて気づいた私は、慌てて“ON”のボタンを押した。
悲鳴に近いレポーターの声が流れていた。
“・・・ツインタワーの一棟は崩壊・・・、ワシントンのペンタゴンにも一機が衝突し、甚大な被害で、死傷者は多数・・・・・”
「ゆうこ、あなたは今ロスの市内へ向かって運転しているのでしょう?衝突した機体は、東から西へ向けて飛んでいたらしく、現在もロサンゼルスの方向へ、テロリストの乗った機体が飛んできているという情報があるそうだよ。大丈夫なの?引き返したら?」
「うん、でも行かないと。」
「え!本当に大丈夫?でも、何かそれらしいニュースを聞いたらすぐ引き返した方がいいと思うよ」
「わかった!心配してくれてありがとう。」 

 幸い、ロサンゼルスは無事だった。
それからの数日間、社のスタッフ全員が十分な食事や休憩も取らずに、全米中で動揺と混乱に巻き込まれたツアー客を、安全に帰国させるため必死に対応した。
なんとか帰国にこぎつけたお客様や同行する添乗員達から、出国前にお礼の電話を頂き、次にアメリカへ旅行するときは宜しくお願いしますと言って頂いたのも束の間、事態は更に深刻な“戦争”という方向へ向かっていた。
米国への旅行は要注意との警告が出され、アメリカにやってくる予定だったツアーは全てキャンセルされた。そして当然の如く、多くの旅行関連会社は閉鎖に追い込まれ、私も職を失った。
世界貿易センターが崩壊していく模様が、繰り返し何度もテレビで流される中、今まで自分が頑張ってきたことに何の意味があったのかと自暴自棄になり、毎晩眠れず、お酒を飲んだ。就職活動をしようにも、旅行業者のキャリアでは、どの社も雇い入れてはくれなかった。

 面接に落ち続けて途方にくれ始めた頃、Eコマースの仕事で、日英のバイリンガルであれば経験不必要という仕事を新聞広告で見つけた。
たくさんの人が職を失っている中で、破格の高時給で雇われた。けれども、いざ蓋をあけてみると、無修正の米国製ポルノビデオやDVDを日本に送る仕事であった。各女子従業員にはコードネームのようなものが与えられていた。それらの商品を作って管理していたスタッフは英語しか話せなかったが、社長は日本語を片言話せる中国系アメリカ人であった。Eメールで客との交信を行う部門で働いていたのは全員日本人女性であった。猥褻なメッセージは、あらかじめ保存してある資料に書き並べてあり、それらを自分で適当に選んでメールにペーストして送信するだけの作業であったが、いくら仕事が無く、お金のためとはいえ、嫌で、恥ずかしくて、自己嫌悪に陥る毎日だった。ケースに張られた男女が絡みあう裸体の写真を手に取った後、私は理由もなく化粧室に駆け込み、幾度も幾度も手を洗った。時々、キリキリとした胃の痛みを感じては気分が悪くなり、胃液が出るまでトイレで吐いた。そして、生理中でも頭痛など滅多に起こさないのに、偏頭痛のような症状にも悩まされた。きっとストレスが原因なのだと思っていた。結局、その仕事は二週間と続かなかった。

 その後、知り合いの紹介により中国系の旅行会社で働いた。中国富裕層の資金対策か税金対策のための幽霊事務所で、業務は殆ど無く、従業員は私一人だった。事務所の机に座りきりで、給料は出たり出なかったり。社長も滅多に顔を出さないと言う始末だった。仕事や将来に対する不安に、私は押し潰されそうだった。

 光の見えない、まるで泥の底を這うような毎日が続いた。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウエルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

コメント (0)
<次のページ
前のページ>
商人舎サイトマップ お問い合わせ
五十嵐ゆう子プロフィール

食品小売業・ ウェルネス(健康食品)・ビューティ の通訳、コーディネーター、 翻訳・コピーライター。

CMP JAPAN社の美容専門誌"ダイエット&ビューティ”に米国の美容情報記事を2005年より毎月連載中。
2008年、2009年と2年連続で東京ビッグサイトで開催の "ダイエット&ビューティ”展示会にて講演。

カリフォルニア州&ネバダ州公認エステティシャン・ライセンスを所持。
美容展示会などで講演やデモンストレーションを行う。

カレンダー
2015年4月
月 火 水 木 金 土 日
« 11月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930  
指定月の記事を読む
カテゴリー
  • Web小説 「Thank You 命をありがとう」 (2)
  • あとがき (1)
  • エピローグ (1)
  • 第10章 – Rebirth Experience in Sedona, Arizona (4)
  • 第11章 – Thank You (3)
  • 第12章 – Meet Again (2)
  • 第13章 – Dreams will go on (3)
  • 第1章 – My Sweet Hometown (2)
  • 第2章 – Beginning of My Journey (3)
  • 第3章 – Open the Door of Health Opportunity (3)
  • 第4章 – Optimum Health Institute (2)
  • 第5章 – The Story about Johanna (2)
  • 第6章 – The Story of How I Fought My Illness (4)
  • 第7章 – Quality of Life (2)
  • 第8章 – Esthetician Diary from U.S.A. (5)
  • 第9章 – My Dear Friend (2)
最新記事
  • 2010年11月18日(木曜日)
    〈あとがき〉 読者の皆様へ
  • 2010年10月28日(木曜日)
    〈第39話〉 エピローグ― At The Mother Of The Earth (母なる大地にて)
  • 2010年10月21日(木曜日)
    〈第38話〉  いつか全てが、実現に向けて動き出す
  • 2010年10月07日(木曜日)
    〈第37話〉 ナチュラル&オーガニック
  • 2010年09月30日(木曜日)
    〈第36話〉 より良く正しい情報が、チャンスを増やす
最新コメント
  • 2011年01月19日(水曜日)
    五十嵐ゆう子 :〈あとがき〉 読者の皆様へにコメントしました
  • 2011年01月19日(水曜日)
    五十嵐ゆう子 :〈あとがき〉 読者の皆様へにコメントしました
  • 2011年01月02日(日曜日)
    アップルタウン :〈あとがき〉 読者の皆様へにコメントしました
  • 2010年12月31日(金曜日)
    アップルタウン :〈第36話〉 より良く正しい情報が、チ...にコメントしました
  • 2010年12月03日(金曜日)
    限界 :〈あとがき〉 読者の皆様へにコメントしました
  • ホームに戻る
  • トップに戻る
  • 友達・上司・部下に知らせる

掲載の記事・写真・動画等の無断転載を禁じます。
Copyright © 2008-2014 Shoninsha Co., Ltd. All rights reserved.