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Web小説 五十嵐ゆう子「Thank You  ~命をありがとう~」

Web小説 五十嵐ゆう子「Thank You  ~命をありがとう~」

〈第19話〉 砂漠の町、ラスベガスへの引越し

2010年05月27日(木曜日)
カテゴリー:
  • 第7章 - Quality of Life
  
11:27 AM

第7章 ―――― QUALITY OF LIFE

砂漠の町、ラスベガスへの引越し

やがて2年の月日が流れた。
カリフォルニアでエステティシャンとして働く私にも顧客が付き、なんとか人並みに稼げるようになってきた矢先、ラスベガスへ引っ越さなければならないという事実を突きつけられた。
主人が仕事を失い、新しく始めようとしていたビジネスも上手くゆかず、色々職探しをしたが給料やその他の条件が合わず、結局はラスベガスでの職に就かなければならない状態になったのである。

私の治療費やビジネスの失敗などで、家を担保にして借りた借金は4000万円以上に膨らんでいた。最終的に家を手放し、借金を返すことになった。
その当時のアメリカは、サブプライムローンの破綻問題が起こる以前の不動産バブル時で、ロサンゼルスにあった家の値段は購入時価値の倍以上に跳ね上がっていた。家を売り払い、借金を全て返しても、手元にはラスベガスの家を購入出来る頭金が残った。幸い、ラスベガスの家の値段は、高騰しているとはいえ、ロサンゼルス物件の半額だった。
街の景色が見渡せる高台にあり、1年中豊かな緑と花が咲きレモンやぶどうや苺が生ったロサンゼルスの家からすると、次に住む家は以前よりも小さく、砂漠の中にあり、緑が少なかったが、家族3人が暮らしていくには十分だと思った。

私はロサンゼルスの仕事を辞め、一から新しい土地でやり直さなければならなかった。
ナンシーのサロンでは、私のもとへ通うお客様達が私が居なくなることを残念に思ってくれ、「1ヶ月に1度でも良いからロスへ通うことは出来ないのか?」と打診してくれた。その言葉を聞いて本当に涙が出るほど嬉しかった。
私はその時から今に至るまで、月に1度、ロサンゼルスにあるナンシーの店まで往復約900キロの砂漠道を車で通っている。ラスベガスには日系大型食料品マーケットが無いので、仕事でロサンゼルスへ出向くついでに日本食材の買出しもしている。

余談ではあるが、ラスベガスへ越した直後、この砂漠道を家族3人でロサンゼルス出張から戻る途中、横転事故に遭った。深夜の雨の中を夫が140キロの高速で運転していて、水溜りに滑り、私達を乗せた車は路上を3回転半したのだ。車は路肩に激突し全損するほどの大事故だったが、家族3人は奇跡的に無傷だった。それ以来、事故に遭った場所では異常なほど慎重に運転して通っている。

引越しが落ち着いてからは、エステティシャンの仕事を探して、新聞の求人広告と毎日にらめっこした。フルタイムの従業員として給料制で雇い入れる店は少なく、殆どがスペースのレンタルだった。これはある程度の顧客が付いていないと毎月のレンタル料が払えなくなるので一から始める私には非常に不利であった。カジノホテルにはいくつかスパはあるが、マッサージ師の空きはあってもエステティシャンの空きは殆ど無かった。
ラスベガスのホテル王であるスティーブン・ウイン氏が新しくオープンしたカジノホテル内にスパがあった。そのエステティシャン部門に応募してみたが、面接もなく落とされた。後で聞いた話だが、このホテルのスパ経営陣は、ローカルの有名ホテルからエステティシャンを含む美容師達のベテランを引き抜いたそうである。
ラスベガスのホテルの求人に応募すると、履歴書とは別にホテル専用のアプリケーションへの記入が求められる。そこには、「そのホテルか、又は同じホテルチェーンに働く家族、又は知り合いはいるか?」の質問欄が必ず設けられており、そこに誰かの名を書き込める事が出来るか否かが雇用のキーポイントになるそうだ。実際に、ホテルが一般に求人する美容師の数は非常に少ない。従って、他所の土地から来てカジノホテルの職に就く事は容易ではない。

私は結局、地元にあるサロンの面接を受けた。月7万円ほどのフェイシャルルームレンタルだが、そこに長年働いていたエステティシャンがニューヨークへ引っ越すため、彼女の顧客を引き継いで欲しいという条件付きだった。この条件であれば一から顧客を築き上げなければならないという心配も無くなるので、家賃も払っていけるかもしれないと思った。なんとか彼女の眼鏡に適った私はそこで働き始めた。

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息子の事と、私の心に残る傷

こうして仕事の方はなんとか落ち着いたものの、心配事はまだ他にもあった。
息子のユウキには、幼い頃から仲の良かった友達や小学校の学友と離れてしまうという悲しく寂しい思いをさせてしまった。明るく無邪気だった息子がそのために心を閉じ、あまり笑わなくなった。
しかし、親子3人で肩を寄せ合い明るく生きていけば、どんな場所でもどんな事でも乗り越えていけると信じていた。
近所にはユウキと同じ年頃の子供が居なかったので、まず私が友人を作り、同じ年頃の子供がいるお母さんに話して家へ遊びに来てくれるよう声を掛けた。
子供達が遊びに来てくれると、私は毎回クッキーを沢山焼き、冷たいミルクと共に振舞った。それでもユウキの心は長い間頑なに閉ざされていた。「また同じ子供たちを家に呼んであげようか?」と聞いても、ユウキは首を横に振るだけだった。彼も小学校の高学年に差し掛かる年で、少しずつ複雑に物事を考えるようになったためなのかと考えた。

引っ越して1年近く経っても、なかなかユウキの口から他の子供の名前を聞くことは無かった。まさかいじめに遭っているのでは?などと大袈裟に考え、学校の先生方に問い合わせて調査もしてもらったが、そういう事実は無いと言われた。

私がそういうことに敏感になるのには訳がある。私は小学校時代の一時期に、とても理不尽な理由でクラスの男子からいじめを受けた事があるのだ。時として残酷な行動に出てしまう未熟な子供達にとって、祖母に育てられた私は格好のいじめ対象となった。それにはいくつかの原因があった。
まず、私が小学校3年生の時に制服が全く新しいものに変わったのだが、明治生まれの祖母は無駄を嫌い、元の制服がまだまだ着れるという理由で私にそれを買い与えなかった。卒業するまで、1年生の頃に買った制服で過ごしたたのである。1年生の入学当時は長く着られるようにと、私の小さな体にはかなり大き過ぎる制服を着て通学した。
それから、祖母が作ってくれた遠足のお弁当は、おにぎり3個とゆで卵だけだった。それを同級生に見つからないようにいつも隠れて食べた。その事が恥ずかしかった私は、包丁が持てるようになった小学校3年生からは自分で弁当をこしらえた。
そして、極めつけは、女の子は冷やしてはいけないからと冬になると毛糸のパンツを履かされたのだが、小学生には渋すぎる灰色のパンツだった。こんなものが男子にばれたらまたいじめられると思った私は、ある日トイレでそれを脱いでそっと学校の裏にあったゴミ箱に捨てたのだが、どうもクラスの男子に見られていたらしい。その後、私の身の上に何が起こったかは想像にお任せする。

そして、今でも忘れられない、一番理不尽ないじめの原因となったある出来事がある。 何故、小学校であんな事が行われていたのか今でも信じがたいのだが・・・。
母の日になると、家に帰ったらお母さんに感謝しなさいという意味で、クラス全員に赤いカーネーションの花が配られた。母のいない私1人だけは白いカーネーションが与えられた。それがまたいじめられる理由の1つになった。学校の帰り道、悔しくてその白いカーネーションを思いっきり踏みつけ、ゴミ箱に捨てた。(だから今もカーネーションはあまり好きな花ではない。)それをまた誰かに見られていたのだ。学校から貰った花を無残な形にして葬り去った私へ浴びせられた『先生に言うたるぞ』 という言葉は、尖ったガラスの破片となって私の心に突き刺さった。

それでも、現代のいじめとは違い、クラス全員から総スカンをくらったわけではなかった。何人かの女子が男子の目を盗んで私を励まし、遊んでくれた。
しかし、いじめられたという経験は、子供時代に大きな傷を残す事は確かだ。私の大切な子供に同じ思いは決してさせたくはないし、いじめる側にも回って欲しくないと切に願う。けれど、もし、少しでもそんな兆候がユウキに起きることがあれば、私は全員を敵に回しても、彼のために戦う覚悟は出来ている。

少し偉そうな事を云わせて頂くと、親が子供を育てる時、しつけや勉強などを教える前に、自らの命を慈しみ同じように他の命を慈しむことを徹底的に教えてあげるべきだと思う。それは、最終的に大事な我が子を守る盾となると同時に、現代の社会問題となっている少年犯罪も減少するのではないかと思う。差別だってきっと無くなる。

ユウキが生まれた時、長年子供に恵まれなかった私達の喜びは喩えようもないほどで、誕生の瞬間に主人は涙を流した。その事はユウキが幼い頃から話し聞かせている。
「マミー、僕が生まれた時、ダーダ(主人のことをこう呼ぶ)は初めて泣いたんだよね。」
とユウキは事あるごとに繰り返し訊ねる。
「そうだよ。マミーもダーダもずっととユウキの事を待っていて、やっと逢えて嬉しかったんだよ。そやからユウキは、自分を大事にせなあかへんのやで。どの親もマミーらと同じような思いで子供を愛している。そやから他人を傷つけたらあかん。それだけは絶対忘れんといてな。」
このことがあるのか、ユウキは幼い頃から生き物や友達をとても大事にする。それは私にとって1番誇れる息子の性分だ。

ある日、息子に、
「新しい学校に仲の良い友達はいないの?自分から声をかけて、どんどん友達を作れば?」
と話し掛けたら、彼はこう言った。
「マミー、本当の友達を作るのはそんなに簡単なことではないんだよ。」

その言葉を聞いて、私は息子を理解出来ていないなと反省した。ユウキに友達が出来ない事を悩んでいるのは彼自身ではなく、私だったのだ。この子は自分なりに努力をして、この新しい場所で本当の友人を一から探し出そうとしているのだ。私は彼を信じて焦るらずに待ってあげるべきなのだと思った。
そんな息子も2年目に入る頃には仲の良い友人を作り、自分から家へ招待し始めたので、私の取り越し苦労という結果になった。
いやはや、長年待ってやっと恵まれた一人息子というものは、親にとってみれば時に常識を超えるほど気になってしまう存在なのである。いつの日かこの子が成長し私の手元を離れていくと想像するだけで、ドーンと寂しさを味わってしまう。困った親バカの私だ。
しかし、例えそういう日が来ても、ユウキが幸せになるのならそれも仕方がないと思う。我が子の笑顔は何事にも代え難いのだ。

ロサンゼルスの日本書店で、その頃ちょうど話題になり始めたリリー・フランキー氏の著書“東京タワー”を買って読んだ。リリーさんと亡くなられたお母様の、親子愛について綴られた、日本ではあまりにも有名なベストセラーを、息子へ向けられたオカンの気持ちと自分の思いを重ね合わせて読んだ。
リリーさんのお母様の命は、最終的に病気によって奪われてしまうのだが、彼女の想いは息子さんに100%伝わっていたし、最後までリリーさんの傍に居れて幸福だったと思う。亡くなった私の母も、きっとこんな風に私の事を愛してくれていたのだろうなぁ。だから、私が息子に対する深い愛情は、しっかりと母から私に受け継がれていたのだ。

私は机の上に飾られてある母の写真に訊ねた。
「そうやろ?お母さん。」

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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〈第18話〉 質の良い人生を送る

2010年05月20日(木曜日)
カテゴリー:
  • 第7章 - Quality of Life
  
11:19 AM

第7章 ―――― QUALITY OF LIFE

質の良い人生を送る

  闘病中、私はエステティシャンの州認定資格を所得した。理由は3つあった。
1つ目は、それまで続けていた旅行会社関連で仕事を見付けることが当時は難しかった事。
2つ目は、17歳から時折、発作のように酷いにきびが出ることがあり、一時的に良くなってもまた数ヵ月後には同じ症状に戻ってしまうため、エステティックサロンへ通い定期的にフェイシャルサービスを受けていた。しかし、施術方法によって非常に改善される場合とそうでない場合があり、何故だろうという疑問と興味があった。
そして3つ目の理由は、何か他の事に情熱を傾けることによって、自分が病人であるということを一時的にでも忘れたかった。強い意思を築くために、新しい夢を持ちたかったという事である。

癌の告知を受けた半年後に中国系旅行社の仕事も失った私は、カリフォルニア州から失業保険金を貰っていたのだが、通常支給されるのは3ヶ月間で、長くても6ヶ月と決まっていた。しかし、州の指定する職業訓練の学校へ通えば、卒業して試験を受けるまで支給を受けられることを知った。試しにエステティシャンの資格が取れる近場の美容学校を調査したら、州の認定校であった。長年続けてきたキャリアとは全く別世界に入り込む事に不安はあった。けれども、どうせ今までのキャリアでは仕事が見つからない状況だったので“やるしかない!”と思った。

美容学校で600時間の授業と、実習生として校内のサロンで働いた後、州のライセンス取得試験を受け、なんとか合格する事が出来た。全てに約8ヶ月間を要した。米国のエステティシャンは、フェイシャルのハンドテクニックのみならず、ワックスを使用した脱毛、器械を使用したエステ施術、ベーシックメークアップなどの技術を習得する必要があり、その全てが州の実技試験に出る。そして筆記試験に合格するには、細菌学から肌の疾患を主体とする病理学、施術中に器機の故障が起こった際に一時的なメンテナンスに必要な電気工学についての基礎知識、州が規定する美容安全衛生法についてをマスターし(これが一番厳しく、試験の要となる)、食生活の指導を含むカスタマーケアと簡単な経営学等についての勉強をしなくてはならない。

私は百科辞典のような教科書を毎日持ち歩いて1冊全てを丸暗記した。それでも、本に書かれている内容はとても興味深く、勉強するのが楽しくて、ストレスを感じるどころか、久しぶりの学生生活を十二分にエンジョイしていた。

美容学校へ通っていた頃は腹水が溜まる前であり、比較的体調が良い日が続いたので、“もの凄く痩せているね”とはよく指摘されたが、私が癌患者だとは誰も気付いていなかったと思う。エステティックのクラスで勉強した事により、如何に健康で綺麗な肌を保てるのかを理解することが出来た。きちんとお手入れを心掛け、サプリメントも摂り、水も十分に飲んだ。毎日の授業の休み時間にエクササイズがてら仲間と連れ立って学校の周りを歩き、毎日の課題や試験問題などについて語り合った。

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南カリフォルニアは1年を通して温暖で、日本ほどではないが、それなりに雨も降り、花が咲かない月など無い。学校の周りは緑が多くて、ウォーキングには絶好の環境だった。“健康な肌のためには、健康な生活を心がける事”と教科書に書かれてあった。“病気を抱えていても健康な生活を心がけ元気に日々を送れば、それは病人とは呼ばないのではないだろうか?”などと考えていた。だって、私の肌は生き生きと輝き、今までに無いほどキレイになって吹き出物1つ、できなくなったのだ。『QUALITY OF LIFE―どれだけ質の良い人生を送れるか』 という言葉が頭を過ぎった。豊かで人間らしく質の良い毎日を送る事。それは、病気と闘う事と同じくらい私達癌患者には必要なのかもしれないと思った。

実際には、自分が深刻な病を抱えているという事を私は何度も忘れた。それよりも、試験に合格して資格を取りたいという当面の目標が、生きる事への大きな原動力になったのは確かだ。州の認定試験を受ける頃は体調が崩れ始めた頃で辛かったが、試験に合格した事でまた新たな人生の扉を開ける気がした。

学校へ行き出してから判ったのだが、アメリカは日本と異なり、免許を取ったその日から美容師やエステシャンは一人前のプロとしての仕事が期待される。日本のように、一人前になるまでサロンで見習いとして働き、お給料を貰いながら研修を受けられるのとは違う。当然、新人にとって仕事を見つけることは難しい。だから、免許所得後もサロンの受付などのアルバイトをしながら様々なワークショップのクラスを取るなど、勉強を続ける必要があるのだ。通常2年で、免許所得者の10人に3~4人が脱落して別の職業に就き、5年後に残れるのは更にその半分以下と言われる厳しい世界である。

最初、学校側の紹介によって大手サロンで働く事になったが、試しにやってみてといわれたワックス脱毛でモデルになったマネージャーの眉毛を半分取り去ってしまい、即帰宅を命ぜられた。すなわち、「クビ」ということである。その翌日、友人で、脱毛用ワックスを販売しながら講師も行っているマリア・カンフォート女史の家までアポ無しで押し掛け、頼み込んで3日間の特訓を受けさせてもらった。そして帰宅後に、主人の眉毛や体の毛を使用させてもらい(かなり嫌がられた。夫にしてみれば悪夢の日々だったと想像する)、必死に練習した。その後、主人の知り合いである、サロンのオーナーに頼んで働かせてもらえるようになった。店のオーナーであるナンシーは、1人で1日800ドル以上稼ぐほどの売れっ子で、経営者としても優れており、エステティシャンの経験も持つ美容師である。

後になって本人から聞かされたのだが、ナンシーは最初、私を雇うことに躊躇していたらしい。けれども、夫に伴われて面接を受けた私がお手洗いに立っている間に、夫から私の病気のこと、その状況下で美容学校へ通ったことを聞いたらしく、私が戻って来るといきなり、「あなたを雇ってあげる。まだまだ新人だから、お客様がつくまで時間が掛かると思うけど、私が少しずつ教えてあげます。」と言ってくれた。彼女も甲状腺の病気をずっと抱えながら頑張って仕事を続けてきたことが理由だったと教えてくれた。新人のエステティシャンにすれば、非常にラッキーなスタートであったと思う。

抗癌剤治療を終えてから、少しブランクがあったものの、私は少しずつエステティシャンとしての道を歩き始めた。副作用ですっかり髪が抜け落ちた頭には鬘が必要であった。“ええい、どうせならこの状態をお洒落に楽しんでしまえ”と気持ちを切り替えた。その頃私が買い求めたかつらは、ファンキーで、ど派手なカラーのスタイリッシュへアー、ごく普通のショートヘアー、肩まであるボブスタイル、そしてワンレングスでハイライト入りのロングヘアー(これは髪が抜け落ちてしまった反動である)の4種類だった。それらをその日の服装に合わせて毎日取り替えて被り、仕事へ出掛けた。

ナンシーの店で働き始めて半年が過ぎた頃、ビバリーヒルズにある美容整形のクリニックが、院内にオープンしたフェイシャルルームで英語/日本語のバイリンガル・エステティシャンを募集しているという求人広告を見つけた。そこでもパートタイムとして週2日働いた。クリニックでは、最新の超音波を使用し、シミやしわを改善する器機やら、ケミカルピーリング、マイクロダーマブレーション(肌の角質をクリスタルの粉を使用して研磨する器械)を用いてトリートメントを行うトレーニングを受けた。もともと私が考えていたスキンケアは、器機の使用を極力最小にし、ハンドテクニックを中心にナチュラルな成分のプロダクトを用いたホリスティカル(自然治癒力を高める処方)な施術で行いたいと思っていた。けれども、医療エステティックを知る事はその違いを知る事にもなり、とても勉強になった。

ACUTE CONDITION(救急に対処が必要な状態)に値する第3段階といわれる化膿したニキビ、広範囲に濃く出来たシミ、また火傷の跡などは、クリニカル的処方を行わずしてめざましい改善を得るのは難しい。時として、代替療法に限界があるのと同様にスキンケアの世界においても、ホリスティカルなアプローチだけでは対処が困難なケースもある。逆に、しわ取りにおいて、急速な効果が期待できるボトックス(ボツリヌス菌注射)やレーザーによる脱毛、シミ取り、そしてケミカルピールによる治療は事故が起こるケースも多く、これらの処方を行うことによって一時的に改善されても、別の副作用を併発する症例もある。

現在の美容業界で、MED SPAやWELLNESS SPAと呼ばれる、通常のエステティックと医療エステティックがコラボレートした形態が注目される様になってきているが、これらは統合的医療(INTEGRETIVE MEDICENE)のコンセプトが美容&ヘルス業界で拡がってきてることと共通している。

“私が自ら体験してきたり、それによって考えてきたことが、こんなところで繋がっているのだ”と、不思議な気がした。それはまるで、いくつもの小さく細い川の支流がある地点で出会い、繋がり、やがて1本の太い流れとなって大河に向かってゆくようだった。

無駄な人生など決して無い。全ての経験に意味があって、本当は大きな流れに乗ることが出来るようになっているのかもしれない。

真の健康を手に入れたいと望む全ての人にHealth Opportunity「ヘルスオポチュニティー健康になる機会」について伝えたい。そんな仕事をいつかやってみたいと、漠然ではあるが、時々そんな風に考えるようになったのもこの頃だった。

五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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〈第17話〉 最善(オプチマム)の方法 (後編)

2010年05月13日(木曜日)
カテゴリー:
  • 第6章 - The Story of How I Fought My Illness
  
10:14 AM

第6章 ―――― The Story of How I Fought My Illness (私の闘病録)


最善(オプチマム)の方法  (後編)

 抗癌剤投与の入院中、私の身体には今まで体験した事の無い、色々な変化が起きた。中でも最悪だったのは顔色だった。まるでエイリアンのような緑色に変色していた。丁度その時、私を見舞いに訪れた友人の一人は、ドアを開けたところで私を見て驚愕したのか、あからさまに後ずさりし、よろけて転びそうになっていた。

しかしそんなことよりも、息子が私の容貌を怖がり、口にした一言が最もショックだった。
「マミーのお顔、ゴーストみたい。」
さすがの私も夜中トイレに立つ際には、鏡に自分の顔が映らないように努めた。今となっては笑い話だが、自分で自分の顔を見るのがとても恐ろしかったのである。

 そして緑色の肌の状態が数日続いたある日、下腹部への急激な圧迫感があり、激しい便意をもよおした。肛門の出口が破裂してしまうのではないかと思うほどの大きな固まりが出そうで、30分以上かけてトイレで悪戦苦闘した。その結果、とてつもない量の粘土質で真っ赤なレンガ色の塊が便器の中に山のようになって排出された。まるで臓器がそのままの状態で飛び出したかのように見え、その色と薬品と鉄の錆びた様な匂いは、抗癌剤薬タキゾールを連想させた。驚くべき事にそのレンガ便が出た後は、顔色や唇の麻痺など、全ての症状が改善し、すっかり通常の状態に戻れたのである。体のヘドロというか、溜まっていた毒素の全てが塊となってドバーと吐き出されたようであった。

 実は、抗癌剤投与と同時に、先生方の許可を得て天仙液だけは続けて飲んでいた。というのも、この天仙液は抗癌剤と併用すると効果が非常に上がるという検証データを読んでいたからであった。漢方薬を含む代替療法を完全に信用する事に多少の疑いを持っていた主人でさえ、「天仙液は結構効いてたんじゃないの?」と言っていたほどである。しかし、何故そう思うのかと聞いてみたら、「なんか匂いが強烈で、いかにも効きそうだったから。」と返された。どんな状態においても決して深刻な様子は見せず、抗癌剤治療の合間も時間が許す限り私の傍に付き添い、励まし、サポートを続けてくれた彼に深く感謝をしている。

抗癌剤使用の副作用で髪や体中の毛は全て抜け落ちたが、医師や周りの人間が驚くほどの高速スピードで私は回復して、発病前以上に元気になった。先に私の見舞いに来て、その酷い容貌の変化で転びそうになるほど驚いた友人が、数日後に再び見舞いに訪れた時、あまりの回復振りにまた転びそうになったほどである。

 抗癌剤治療の間は時折体温の調整が狂い、全身がカッカッして汗が噴出してくる“のぼせ状態”になったり、食事をする時に奥歯でゴムを噛んでいるような感覚を覚えることがあったが、アカーシャセンターで定期的に受けた針治療や漢方の処方と食事療法のお陰で、耐えられないほどの副作用を感じることは無く、6クール(約半年)の投与を終えてから1年ほど経つと私の腫瘍は完全になくなり、検査の結果も全て正常な状態となった。

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後に、ドクター・デアンジェロから言われた事だが、私がオプチマムヘルス協会で行ったデトックスや徹底的な食事療法が、身体に毒素を排出する能力を与え、それが最良の状態に保たれていたのが非常に役立ったらしい。様々な病気を誘発する原因となる体に溜まっていた長年の毒素が、デトックスである程度まで取り除かれていた事。厳しい食事療法が日常生活の一部になっていた私にとって、先生が指示した食事療法(内容はほぼ同じだが完全な菜食でなく、白身魚とキレイな海で自然に捕獲されたサーモンとオーガニックの鶏肉、ホヘイプロテインという乳清タンパク質を摂り、たんぱく質の量を増やして野菜中心の食生活を基本にする)を続ける事は至極簡単だったので、体の免疫力を高めるダイエットを持続することが出来た事。ウィートグラス(小麦草)を習慣的に飲むことも続けていたので(これは今も欠かさず続けている)必要なミネラルは十分に摂取され、体内が常に弱アルカリ性に保たれていた事。一時的に精神が不安定になっても、それを直ぐに健全な状態に戻すことが可能なコントロール法も習得していた事等である。

 抗癌剤の様な毒薬を体に入れても、その毒が病気の根源を叩いた後、しっかりと体外に排出されるのならば、それは理想的な方法なのである。統合医療とはこういうことだと自らの体をもって知った。この闘病期間の経験が、その後の私に訪れる様々な『OPPORTUNITY (転機)』と絡み合って、その数年後の私の人生の道を照らし、大きな夢を抱くきっかけとなることを、まだその頃の私は気付く由もなかった。


五十嵐ゆう子
JAC ENTERPRISES, INC.
ヘルス&ウェルネス、食品流通ビジネス専門通訳コーディネーター

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五十嵐ゆう子プロフィール

食品小売業・ ウェルネス(健康食品)・ビューティ の通訳、コーディネーター、 翻訳・コピーライター。

CMP JAPAN社の美容専門誌"ダイエット&ビューティ”に米国の美容情報記事を2005年より毎月連載中。
2008年、2009年と2年連続で東京ビッグサイトで開催の "ダイエット&ビューティ”展示会にて講演。

カリフォルニア州&ネバダ州公認エステティシャン・ライセンスを所持。
美容展示会などで講演やデモンストレーションを行う。

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