こどもの日の「プランBをもつ経営だけが危機に耐えられる」

こどもの日。
次の日曜日は5月10日。
5月の第2日曜日。
母の日。
こどもの日から母の日までは、
母子の週間。
商売はこれ一辺倒でいいだろう。
毎年、そのことをお薦めしている。
さて私の熱は36.6℃に下がった。
医者には行かなかったが、
多分、風邪ではなかった。
だから1日で回復した。
しかし何だったのだろう。
4月14日から22日まで、
ニューヨークで研修に打ち込んだ。
帰国してからはすぐに、
月刊商人舎5月号の編集に邁進した。
責了した5月1日は、
ひどく疲れていた。
そのことをよく覚えている。
それが原因で5月3日に頭痛がして、
4日に発熱したのだと結論づけた。
ウォルマートのサム・ウォルトンが、
「Sun down Rule」を残している。。
問題が発生したときには、
陽(Sun)が沈む(down)までに、
つまり今日のうちに、
その問題を解決せよ。
問題解決まで至らなくても、
今日できることをせよ。
だからなぜ熱が出たかをよく考えて、
ある程度、決着させておかねばならない。
疲労したら、
休養する。
素早く、徹底的に。
それをやった。
さて日経新聞「Deep Insight」
田中角栄の「ノー」に学ぼう
奥村茂三郎さんが書く。
日本経済新聞社コメンテーター。
1973年11月15日。
第1次石油危機のきっかけとなった、
第4次中東戦争が勃発して1カ月余り。
ヘンリー・キッシンジャー米国務長官が来日した。
田中角栄首相が首相官邸で向き合った。

イスラエルを支持したリチャード・ニクソン政権は、
石油確保のためにアラブ寄りの外交に傾斜する。
田中政権に懸念を深めていた。
キッシンジャー。
「日米同盟を忘れてはなりません」
田中。
「忘れるどころか日米同盟が基本です。
アメリカが今すぐ石油を供給してくれるというなら、
資源のない日本としては、
あなたの意向に従いますよ」

キッシンジャーは返答に窮した。
田中。
「そうでしょう。
こと石油資源に関しては中東との関係を
日本は維持せざるを得ないのです。
そこはわかってください」
キッシンジャーは緊張した面持ちで、
官邸を後にした――。
田中の秘書官だった小長啓一元通産次官。
もう95歳。
「田中さんは日本の主張をまずぶつけて、
米国に難しさを認めさせた」
10日後、田中は内閣改造に打って出る。
組閣時の記念写真には最前列に、
三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、
そして中曽根康弘が並ぶ。
「三角大福中」勢揃いで、
挙国一致を演出した。

特に福田大蔵大臣の人事。
「角福戦争」と呼ばれた政敵を蔵相に起用。
このとき福田は二つの条件を出した。
一つは「列島改造論の旗を降ろすこと」
もう一つは「経済を全部、自分に任せること」

田中。
「わかった。
自分は経済に口を出さないから頼む」
田中の考え。
「全体の情勢が変わったので
危機時に従来の政策をそのまま
続けるわけにはいかない。
福田さんの総需要抑制でオーケーだ」
福田蔵相の政策転換はめざましかった。
年末の74年度予算編成では、
公共投資の伸び率をゼロに抑えた。
列島改造の目玉だった、
本州四国架橋の建設費は半分以下、
東北・上越新幹線の建設も大幅な延期となった。
さらに福田の意志によって、
日銀は異例の2%利上げに踏み切った。
田中の資源外交も実る。
アラブの産油国は日本を「友好国」と認め、
石油の供給量を中東戦争開戦前の水準まで戻した。
奥村コメンテーター。
「半世紀後の日本も再び、
『石油危機』に向き合っている」
今はもうオイルショックだ。
「同盟か資源か、景気か物価か」
課題は共通する。
しかし低成長・高債務・人口減に直面する、
現在の日本に当時と同じ処方箋は使えない。
それでも田中、福田という傑出した政治家から、
学ぶべき教訓は多い。
高市早苗首相は、
ガソリンや電気・ガス料金の上昇に対して、
補助金で需要を下支えする姿勢が明白だ。
供給制約の局面で価格シグナルまで弱めれば、
需要が調整されず危機は長引く。
列島改造を撤回して総需要抑制に転換し、
金利を引き上げた田中内閣とは異なる。
当時は企業と家計に対して、
「不要不急のエネルギー消費の自粛」も求めた。
第1次石油危機の当時、
大蔵省国際機構課長だった行天豊雄元財務官。
行天さんも95歳。
「価格に介入せず市場原理を生かした方が
危機からの立ち直りは早い」
国家戦略において、
代替なき依存ほど危ういものはない。
半世紀前の教訓は明快だ。
プランBを持つ国だけが、
危機に耐えられる。
これは小売業の経営にもぴたり当てはまる。
私の言う「トレードオン」である。
プランBをもつ経営だけが、
危機に耐えられる。
〈結城義晴〉























