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【前編】 盛和塾最優秀経営者賞に輝いた松井紀潔氏の経営哲学| アメリカ流通 浅野秀二のアメリカ寄稿

浅野秀二のアメリカ寄稿

【前編】 盛和塾最優秀経営者賞に輝いた松井紀潔氏の経営哲学

2009年09月29日(火曜日)
カテゴリー:
  • アメリカからのメッセージ
  
4:07 PM

先日のブログで、盛和塾全国大会での
松井氏の経営者発表の模様をお伝えしました。
あまりにも素晴らしい経営者発表でしたので、
読者の皆様と共有したいと思います。

盛和塾のメンバーの売り上げ合計は24兆円にもなります。
その中で最優秀経営者賞(2009年)に輝いたのが松井紀潔氏です。

MATSUI NURSERY, INC.(松井ナーセリー)
創業:1967年
現職就任:1967年
事業内容:蘭の周年栽培
資本金:1億円
売上高:22億円
従業員数:180名
社長:松井 紀潔(まついとしきよ) 

◇経営体験発表/最優秀賞
カリフォルニアに「利他の心」を  【前編】

◎成功するが、労働組合に乗っ取られる

 私は1935年の生まれで、高校を出て農家の跡継ぎとしてしばらく農業をしました。
 23歳で結婚して長女が生まれましたが、農業には何の希望も持てず、1961年に農業実習生として渡米しました。
 25歳でした。

 翌年の4月に実習生のプログラムを終えて奈良の田舎に戻りましたが、私は「カリフォルニアの百姓」を夢みて、その夏に再び単身でカリフォルニアに戻り、菊の農場で働きました。
 所持金は一万円札一枚。切符を買う金もなく、片道切符は到着後働いてから返すということにしていただきました。

 2年後、私はアメリカの永住権を申請し家族を呼び寄せました。家内も時給85セントで働いてくれたので、わずかな貯金も貯まりはじめました。
 1966年には永住権を得て、早速その翌年に借地で菊の栽培をはじめました。資金は日当働きで貯めた5000ドルだけでした。

 1970年、私は最初の3年間で残した4万ドルを元手に、サリーナスの町外れに20ヘクタールの畑を買い求め、16万5千ドルの融資を銀行から受けることができました。これは現在の価値にすれば100万ドル以上の金額です。
このとき私には数字に基づいた事業計画と、世界一の規模の菊栽培をする戦略がありました。それは、総面積が13ヘクタールの新しい温室を10年で建てるという計画でした。知人たちは笑いましたが、銀行は私の計画に賛同して必要な融資を保証してくれたのです。
 こうして私は、この13ヘクタールの温室を、予定通りきっちり10年で建て終えました。

 このときの私の菊栽培の戦略は、何よりもまず品質の高い大輪の菊を大量に市場に年中供給することでした。そして委託販売でなく、庭先渡しの値をつけて売ることでした。また顧客は一都市一店を原則としました。これは値引き競争を避けるためでした。
 私はこの菊の10年計画を終えた時点で、全米の大輪菊のシェア15%を握り、アメリカの菊の市場価格をコントロールしていました。こうして菊の商売は予想以上に順調にいき、8年目には小さい自家用機も買えるまでになったのです。

 しかし1970年代も終わりに近づくと、石油危機に端を発したインフレが進み、大輪菊の市場も怪しくなりそうな気配でした。
 私は早速、菊よりも将来性の見込めるバラへの転作計画をつくり、バラ栽培に取り掛かりました。菊では大きな利益を上げていましたので、転作の資金は十分ありました。しかしアメリカ国内の主要な都市の近郊には古くからの大規模なバラ栽培者がいて、すでにそれぞれの市場を押さえていたのです。
 私のバラ栽培の戦略は、夏の涼しいサリーナスの気候を味方に、出荷の重点を夏に置き、新しいバラの消費を開拓することでした。また新しく作出(さくしゅつ)された「ベガ」という優れた新品種を選び、独占的に市場に出したのです。
 策略は見事に当たりました。
 最初の五年は申し訳ないくらい儲かりました。税金もしっかり払わせていただきました。ぺブルビーチのゴルフ場の上に茶室のついた新居を建て、飛行機も実用的なものに買い換えたのもこの頃でした。

 しかしこの世の中、物事は絶頂ばかりは続きません。1984年の秋でした。
 数年前からカリフォルニアでは、メキシコ系の農業労働者組合の結成に火がつき、花の農場にも飛び火してきました。私は他に比べて三割ぐらい高い給料を払っていたので、労働組合は絶対に寄りつかないと高を括っていたのです。しかし組合側は、「そこまで払えるのなら、もっと払えるはずだ」という無茶な話を持ってきました。
 メキシコの国旗を掲げた労働組合はあらゆる面から経営者の権利を剥ぎ取ろうとします。
 たとえば小さな機械を導入するにも組合の許可が要り、労働者を雇うにも、解雇するにも組合の許可が必要だというのが彼らの常識なのです。
 私は時給85セントの農業労働を経験しているので、決して農業労務者の立場が理解できないわけではありません。私は私なりに従業員の「物心両面の幸福」を願って、三割も高い給料も払っていたのです。しかし農場の中に赤旗がなびき、メキシコの国旗が翻るのには耐えられませんでした。

 私は農場を売り払う決心をして大きな広告を門の前に出しました。けれども労働組合に乗っ取られた農場に、買い手はまったくありませんでした。
 この頃、このメキシコ系労働組合のトップの仲間争いで二人の幹部が除名されたことを聞きました。私は躍り上がりました。早速その一人を雇い入れ、いかにしてこの組合を追い出すかの戦略を練ったのです。
 結果的に、労働組合側は2年かかっても安っぽい労働契約しか取れなかったので、誰も組合を信用しなくなり、その翌年には追い出すことができました。しかし私の会社は4年越しの赤字が続いていました。それでも「ダム式経営」のおかげで、銀行にはまだ400万ドル以上の現金が残っていました。私は早速隣の土地を買い上げ、温室の増築をはじめました。

◎「愛」が入っていなかった 

 労働組合の問題で悩まされてから、私は自分のやり方のどこが間違っていたのかをずっと考え続けていました。つまり、何が原因で4年という年月を無駄にしたのかということです。

 その頃に東京で見つけたのが、稲盛塾長の著書『心を高める、経営を伸ばす』でした。私はこの本を帰りの飛行機で二度熟読しました。そしてそれぞれの項目に私自身を照らし合わせてみたのです。
 最初の項目は合格しましたが、「愛を施す」というところで引っかかりました。

 実は私は20年来のロータリー会員です。身分以上の寄付もしてきました。私の時間の三分の一は地方の役職や他人の世話に費やしてきました。従業員にも大盤振る舞いをしてきました。
 しかしこれらは、塾長のいわれる「愛を施す」というのには程遠かったのです。やっていることに「愛」が入っていなかったのです。
 わが社の大事なメキシコ人の従業員に「愛を施す」ことを怠っていたと、そのとき稲盛塾長は教えてくださったのです。

 私は早速、会社の組織改革にのりだしました。
 主なマネージャーと課長級の12人を全員メキシコ人に入れ替えました。私は一般の作業員にも「コモスタール!(元気か)」「アデオース!(さようなら)」と、気軽に大声で話しかける努力をしました。
 すると、たったこれだけで会社の雰囲気は変わりはじめ、利益率も改善してきたのです。そしてとうとう私は稲盛哲学のとりこになり、稲盛塾長の本を手当たり次第に読むようになったのです。

 当社の取り組むアメーバ方式では農場内での作業効率を上げると共に、マネージャーの負担を減らすために、5、6人のグループ制で仕事の「出来高払い制」を普及させました。これで時間給制に比べて20%ぐらいは作業効率が上がり、社員も給料が増えるので仕事も活気が溢れます。
 時間給の社員と週給制のアシスタントマネージャーたちには公開の勤務評定を毎年行い、給料をガラス張りにしました。営業部員には歩合制を加えて、給料の天井を取り除きました。
 また四人のマネージャーは各自の生産高と、会社の純益配分を重点にした給与体系に切り替えたので、私の給料は会社で八番目に没落しました。

 しかし組合問題は解決したものの、1989年頃からは南米からの安いバラの輸入攻撃を受けました。私はバラの販路を、宅配便を使った消費者への直売に切り替えるとともに、スーパーへのバラの花束攻勢をかけ、応戦したのです。この花束販売も目新しい商売で大きな注文が入るようになりましたが、またすぐに真似をする競争相手が出てくるのです。

 そこで私は単にマーケティングを変えるだけでなく、バラの「冷凍真空乾燥」という新しい技術を開発しました。大量の「フリーズドライローズ」を日本やヨーロッパ市場に輸出して、大きな利益を上げることができました。
 しかしこのフリーズドライの市場もコストの安い南米産が荒らしはじめました。
 1991年には、さらに南米からの切花の輸入が急増しました。

 私たちの町に65軒もあった花栽培農家のほとんどは、廃業しました。それでも私の手元には、まだ数百万ドルの株や現金が残っています。しかし、現金が手元にあると小型のジェット機が欲しくなるのです。
 そこで思いきって現金を土地に換えることしました。私のダム式経営はいつでも担保に使える「土地」を中心とした資産にしたのです。
 私はその後数年で総面積180ヘクタールの農地を買収しました。これらの土地はいずれも近い将来に市街地として開発される予定でした。数年後、予想通り市街地化が決定し、今ではほとんど買い手もつき、価格は10倍以上に値上りしました。
 私の「ダム式経営」は、今まさに水が溢れ出しそうになっていました。
 しかし私の花商売は相変わらず「切り花」を基本としたもので、コストの安い南米との競争は激しくなるばかりで、1994年には3回目の作付け転換の準備をはじめました。

<続きます>

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