商人舎

アメリカ流通 浅野秀二のアメリカ寄稿

浅野秀二のアメリカ寄稿

2009年秋の視察

2009年10月07日(水曜日)
カテゴリー:
  • 視察&インタビュー日記
  
11:25 AM

夏休みも終わった。
多忙な日々が再び始まった。と言っても以前の勢いはない。
瞬間的な忙しさは、2ヶ月もすればまた秋休みに入り、
そのままクリスマス・正月休みとなる。

米国の失業率はまた上がり、9.8%。カリフォルニアは11.2%にもなった。
リーマン・ショックで大損し、絶対辞めようとした株式市場に、
わずかに残った年金資金で7月にまた足を突っ込んだ。
馬鹿は死ななきゃ治らないようだ。

ひと月で小売は5%、金融は10%、ハイテックは45%、
重電40%、航空会社30%の値上がり。
これをみても小売、金融が極端に弱い。
そして10月に入り、その利益もぶっ飛んだ。でも私は長期的には強気だ。
人間が生きている限り、経済活動は続く。
この乱世から抜けて出てくる国家、企業、業界、また人(英雄)もいる。
それを考えるだけでも興味は尽きない。

付き合いのある先生から夕べ電話があった。
知り合いの企業が2社も倒産したそうだ。
1社は100年も続いた企業である。大切な私のお客でもあった。
慰めの言葉もない。
会社は潰れたが、幸福な人生も可能だと思う。それを祈りたい。

私はどんな時でも、わずかでも、人と違う事(差別化)をしたいと思っている。
何十回も金門橋を見て来た人も、歩いた事はない方々ばかりであった。
金門橋を歩く事にする。

golden gate bridge

サンフランシスコ湾を吹き抜ける風、車の騒音。
277メートルの鉄の柱・塊を触ってみる。
奈落の底を思わせる橋の下まで66メートル。
サンフランシスコは絵にように美しい。
空も太平洋もどこまでも青い、みんな笑顔だ。
遊んでいる時が一番良い顔だ。

それにしても日本のスーパーで売られている稲荷寿司はどこも同じ味なのか?
そんな質問をしたいと考えて橋を歩いた。

さて、今は商人舎の結城先生とフィニックス、ダラス、に来ている。
目玉はもちろん結城先生の話だが、HEBの元副社長のフレミング女史のセミナー
「HEBのプライベート・ブランド戦略」と各店舗の店長アポである。

asano_flemming

sweetpeas_pb

雑誌や新聞の情報も必要だが、
出来るだけ店長アポを取って直に話を聞く事を心がけている。
今回もTrader Joe’s, Marketside, Central Market, Walmart,
Market Street, Whole Foods, HEBとアポを取って質問をして来た。

それぞれの店長インタビューは印象深いものであったが、
圧巻はなんと言ってもプレノ市のWalmartであった。
ここは2006年3月22日、アメリカで初の中産階級以上を対象として開店した店舗である。
島陳列をやめ、大きな写真で商品の位置を明示し、
オーガニック(現在580種類)、1300書類のワイン、チーズを強化して、
カスタマー・サービスを重視した、実験店舗である。

リーマン・ショックの前は、この実験店舗が大成功であり、
600店舗同じような店舗をつくる計画もあったが、その後の不景気でその話は消えた。
現在は4店舗ほどあると聞いた。

圧巻は店の話ではない、実は人である。
毎回ここの店長や、アシスタント・マネジャーの話は印象的であるが、
今回のアシスタント・マネジャーは特に強烈なインパクトを我々に与えてくれた。

walmart_juan

今、ウォル・マートはProject Impactと言って、売れ筋重視、快適な買い物体験、
そして今まで来なかった人々も取り込むために、すべてを大改革中である。

私たちがたくさんの買い物をしている事に気がついいた彼は、開口一番に
「客の期待以上の事をする。あなた達が望むことをしようと思う。
あなた達が小売業にたずさわっているなら、バック・ルームを見たいはずだ。
それなら案内をする。私はこのような事をしたことは一度もない。
Walmartの歴史でもないと思うが、今日は特別だ。」
と発言したのである。

これには私も驚いた。大歓迎である。

walmart_backyard

バック・ルームはクリーンで整理整頓され、作業効率を考えた在庫管理の仕組み、
運機は利便性、安全を考えて工夫されていた。

walmart_backyard2

創業者、サム・ウォールトンと奥さんの写真が飾られ、
社員が常に創業者に尊敬に念を持つように意識されていた。

walmart_sam_helen

また店長・マネジャー クラスの写真も壁に飾られていた。
これは店長のオフィス。

walmart_office

店内を案内中も、カスタマー・サービスが一番大切と繰り返し強調し、
カートが消えた客のために、我々を待たせ、走ってカートを取りに行った事もあった。
少しでも商品が整列されていないとそれを直し、前出しをするのである。
体は常に動き、目も心も100%客の方を向いていた。
また、一方では社員とすれ違う時、必ず声をかけ、笑顔を見せ、
褒め称え、冗談を言い、彼らにも心を向けているのがわかった。
信じられない動き、気配りである。

walmart_juan_asano

ウォル・マート恐るべし。
20名近い幹部は非常に優秀であるが、彼は特に優秀だ。
いつでも店長になる準備は出来ていると言っていた。
どこよりも効率化、低価格を実現した彼らがここまで意識改革を実現すると、
天下は当分揺るがない。
店内は2カ月前から棚を低く見やすいようになっており、
Project Impactは着々と進行中であった。

今後、今以上の成長を考えると、裕福な消費者を取り囲むしかない。
彼らはそこに照準を絞った。
他の小売業に与える影響は今までのレベルと違う、本当のサバイバルが始まる。

浅野秀二
10月06日

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【後編】 盛和塾最優秀経営者賞に輝いた松井紀潔氏の経営哲学

2009年09月30日(水曜日)
カテゴリー:
  • アメリカからのメッセージ
  
11:07 AM

◇経営体験発表/最優秀賞
カリフォルニアに「利他の心」を【後編】

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◎値決めに生きた塾長の「実学」

 今から10年前、アメリカには日本やオランダのような蘭の周年栽培はありませんでした。新しい種類と栽培技術を導入し、大規模栽培によって家庭の主婦が手を出せる価格で量販店のルートに乗せれば、アメリカでは巨大な蘭の市場を開拓できると私は考えました。アメリカの家庭の主婦に「台所に蘭を飾る習慣をつけてやるぞ!」と決心したのです。

 しかしアメリカの一般家庭とひと口に言っても、もちろん貧富の差が大きいのです。そこで私は、蘭を大・中・小と三つのサイズの鉢で栽培するとともに、多種類の蘭を栽培して商品の幅を大きくし、誰にでも買える蘭を提供できる方法を編みだしました。特に9センチの小鉢で栽培する低価格商品の「ミニ蘭」は、この不景気に乗って今世界的にヒットしています。

 そして、まったく新しい蘭という商品を売り出すのですから、値決めには悩みました。幸いにもこの頃塾長が出版された『稲盛和夫の実学』から「お客さんが納得し、喜んで買ってくれる最大の値段」を学び、値決めの基本にさせていただきました。これはコスト(原価)+30%ぐらいのものでした。

 蘭という作物は、苗から商品にするまでに平均、2年はかかりますが、わが社の利益率は上がってきています。最近の純益率は、2005年度は売上の23%、2006年は24%、2007年は売上が2600万ドルで、利益はその25%の670万ドルを記録しました。

 しかし2007年の年明けから、住宅価格は年率15%以上もの高騰がはじまりました。私は「バブルがはじければ蘭は売れない」と読んで、増産計画をすべてストップしました。商品構成を見直し、蘭も小型サイズを増やし、大型で値の張るものの生産を縮小したのです。小売価格も平均20ドルから10ドル前後に移しました。2008年度の売上は前年に比べ三割減を予想しましたが、私の経営転換がある程度は効果を上げ、16%の下落に留まりました。また赤字の予想が、利益率も7.7%だけは確保することができました。

 今年の5月から、今度の世界不況も薄日が見えはじめましたので、蘭の第三次増産計画を再開しました。この後の計画は、古い温室の改築を進め、3年後には年間の生産量を一気に550万鉢まで拡大して、年間売上を4000万ドル、そして純益を800万ドル以上にまで伸ばす計画です。このために今、ニューヨークの南に蘭の開花用の温室を建てています。ここに半製品を送り込んで蘭を開花させ、積極的に東海岸の市場を開拓していくのです。「ピンチこそチャンス」という、塾長から教わったことの実践です。

 またアメリカだけでなく国際的な蘭栽培を考え、「二十一世紀を蘭の世紀に」をスローガンに、2007年の春に台湾で「国際蘭栽培者協会」を結成しました。私がその初代会長に選ばれ、「利他の心」で世界の蘭栽培の発展のために、時間と資金を注ぎ込んでいる最中です。

 現在、会社の規模は総土地面積216ヘクタールですが、その三分の二は「ダム式経営」のダムの役目をしており、野菜農家に貸しながら住宅開発を待っています。温室の総面積は約30ヘクタールで東京ドームの約6倍。栽培面積だけは蘭栽培では世界一の規模で、生産量はカリフォルニア州の蘭の約半分、アメリカ国内の20%を生産しています。従業員数は190人で、会社の資本金は114万ドル、株主は私だけで、長らく無借金経営です。

◎一生かけて稼いだお金を地域のために

 15年前、私の死後に揉め事がないように遺書を書きました。
私には4人の子供がいますが、30年前に長女がハーバード大学に入りました。それで私は後の3人の子供をつかまえて「ハーバードに行けない者が花づくりの跡継ぎだ」と宣言したのです。それに恐れをなして子供たちは全員がハーバードを卒業しました。
 跡取りに仕事を継がせても、良いところ30年です。それで自分で自分の跡を継いだのです。私は子供にはそれぞれ自分の好きなことをさせたのですから、「子供孝行」ができたと鼻高々です。

 私は稲盛塾長が莫大な私財を投じて稲盛財団をつくられたことを知っていました。子供が大学を卒業した後、私は大学教育がいかに経済効率の高いものであるかに驚きました。アメリカの子供の将来は大学教育で決まることが判ったのです。

 私たちの住むモントレー郡は人口50万近くで、ラテン系が半分をしめ、ギャングですっかり有名になりました。これを改善できるのは、新たな産業の開発とその基となれる人材の養成です。特に大学教育の普及が第一条件です。

 私は塾長のような大金はもっていませんが、遺書に「私の死後、残った物はすべてこの地域の貧しい子供たちの大学教育に使う」と書いて公表しました。塾長からいつも教わっている「利他の心」をわずかでも実践してみようと思いたったからです。5年前に「松井財団」をつくり、毎年自社の利益の10%を寄付して大学奨学資金制度をはじめました。毎年各人に1万ドルずつ4年、総額4万ドルを与えるもので、家庭の援助がなくても、少しアルバイトをすれば公立大学を卒業できます。
 一人の奨学生からはじめ、今年は18名になりました。6年間で合計60名、総額224万ドルを寄付しました。奨学資金の将来の主な財源は、手持ちの180ヘクタールの土地と私の農場などで、総額一億ドルぐらいにはなるでしょうか、少なくても2500人以上の貧しい若者を、これから25年間、この田舎から大学に送ることができます。
私が地域社会に捧げていくのはたいした額のお金ではありません。でもこれは私が一生で稼いだお金のすべてで、この全額を地域社会に捧げていくところに意義があると思います。

 私は子供や孫たちに、1ドルの遺産も残しません。私が彼らに残したいのは、誰でも人助けができる立場に立ったときには、恵まれない人々のために尽くすことが人間にとっていかに大切なことかという、塾長から学んだ「利他」の考えです。これを私の「遺産」として、子供や孫たちに残していくつもりです。

 昨年、シリコンバレー塾の開講式にお越しになった塾長が、私の蘭の栽培場を訪ねてくださいました。温室の中央から蘭を見ておられた塾長が「通路を入っても良いか」と聞かれるのです。「もちろんです」と答えると、塾長はお一人でどんどん奥まで進まれ、「手にとって見てみたい」と花にご自分の手を添えられるのです。
 この瞬間、私の脳天に稲妻が走りました。「経営の隅々まで見まわる努力を惜しんでは本当の経営者にはなれない」。このとき、私は肝に銘じたのです。

ran2

 私はまだ74歳です。私は100歳まで現役でがんばります。そして塾生のわれわれこそ、稲盛塾長の教えを、広く、深く、長く後世に伝えてゆく証人とならなければならないと思うのです。
 稲盛塾長には心からお礼を申し上げるとともに、今後とも末永くご指導をお願い申し上げます。

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【前編】 盛和塾最優秀経営者賞に輝いた松井紀潔氏の経営哲学

2009年09月29日(火曜日)
カテゴリー:
  • アメリカからのメッセージ
  
4:07 PM

先日のブログで、盛和塾全国大会での
松井氏の経営者発表の模様をお伝えしました。
あまりにも素晴らしい経営者発表でしたので、
読者の皆様と共有したいと思います。

盛和塾のメンバーの売り上げ合計は24兆円にもなります。
その中で最優秀経営者賞(2009年)に輝いたのが松井紀潔氏です。

MATSUI NURSERY, INC.(松井ナーセリー)
創業:1967年
現職就任:1967年
事業内容:蘭の周年栽培
資本金:1億円
売上高:22億円
従業員数:180名
社長:松井 紀潔(まついとしきよ) 

◇経営体験発表/最優秀賞
カリフォルニアに「利他の心」を  【前編】

◎成功するが、労働組合に乗っ取られる

 私は1935年の生まれで、高校を出て農家の跡継ぎとしてしばらく農業をしました。
 23歳で結婚して長女が生まれましたが、農業には何の希望も持てず、1961年に農業実習生として渡米しました。
 25歳でした。

 翌年の4月に実習生のプログラムを終えて奈良の田舎に戻りましたが、私は「カリフォルニアの百姓」を夢みて、その夏に再び単身でカリフォルニアに戻り、菊の農場で働きました。
 所持金は一万円札一枚。切符を買う金もなく、片道切符は到着後働いてから返すということにしていただきました。

 2年後、私はアメリカの永住権を申請し家族を呼び寄せました。家内も時給85セントで働いてくれたので、わずかな貯金も貯まりはじめました。
 1966年には永住権を得て、早速その翌年に借地で菊の栽培をはじめました。資金は日当働きで貯めた5000ドルだけでした。

 1970年、私は最初の3年間で残した4万ドルを元手に、サリーナスの町外れに20ヘクタールの畑を買い求め、16万5千ドルの融資を銀行から受けることができました。これは現在の価値にすれば100万ドル以上の金額です。
このとき私には数字に基づいた事業計画と、世界一の規模の菊栽培をする戦略がありました。それは、総面積が13ヘクタールの新しい温室を10年で建てるという計画でした。知人たちは笑いましたが、銀行は私の計画に賛同して必要な融資を保証してくれたのです。
 こうして私は、この13ヘクタールの温室を、予定通りきっちり10年で建て終えました。

 このときの私の菊栽培の戦略は、何よりもまず品質の高い大輪の菊を大量に市場に年中供給することでした。そして委託販売でなく、庭先渡しの値をつけて売ることでした。また顧客は一都市一店を原則としました。これは値引き競争を避けるためでした。
 私はこの菊の10年計画を終えた時点で、全米の大輪菊のシェア15%を握り、アメリカの菊の市場価格をコントロールしていました。こうして菊の商売は予想以上に順調にいき、8年目には小さい自家用機も買えるまでになったのです。

 しかし1970年代も終わりに近づくと、石油危機に端を発したインフレが進み、大輪菊の市場も怪しくなりそうな気配でした。
 私は早速、菊よりも将来性の見込めるバラへの転作計画をつくり、バラ栽培に取り掛かりました。菊では大きな利益を上げていましたので、転作の資金は十分ありました。しかしアメリカ国内の主要な都市の近郊には古くからの大規模なバラ栽培者がいて、すでにそれぞれの市場を押さえていたのです。
 私のバラ栽培の戦略は、夏の涼しいサリーナスの気候を味方に、出荷の重点を夏に置き、新しいバラの消費を開拓することでした。また新しく作出(さくしゅつ)された「ベガ」という優れた新品種を選び、独占的に市場に出したのです。
 策略は見事に当たりました。
 最初の五年は申し訳ないくらい儲かりました。税金もしっかり払わせていただきました。ぺブルビーチのゴルフ場の上に茶室のついた新居を建て、飛行機も実用的なものに買い換えたのもこの頃でした。

 しかしこの世の中、物事は絶頂ばかりは続きません。1984年の秋でした。
 数年前からカリフォルニアでは、メキシコ系の農業労働者組合の結成に火がつき、花の農場にも飛び火してきました。私は他に比べて三割ぐらい高い給料を払っていたので、労働組合は絶対に寄りつかないと高を括っていたのです。しかし組合側は、「そこまで払えるのなら、もっと払えるはずだ」という無茶な話を持ってきました。
 メキシコの国旗を掲げた労働組合はあらゆる面から経営者の権利を剥ぎ取ろうとします。
 たとえば小さな機械を導入するにも組合の許可が要り、労働者を雇うにも、解雇するにも組合の許可が必要だというのが彼らの常識なのです。
 私は時給85セントの農業労働を経験しているので、決して農業労務者の立場が理解できないわけではありません。私は私なりに従業員の「物心両面の幸福」を願って、三割も高い給料も払っていたのです。しかし農場の中に赤旗がなびき、メキシコの国旗が翻るのには耐えられませんでした。

 私は農場を売り払う決心をして大きな広告を門の前に出しました。けれども労働組合に乗っ取られた農場に、買い手はまったくありませんでした。
 この頃、このメキシコ系労働組合のトップの仲間争いで二人の幹部が除名されたことを聞きました。私は躍り上がりました。早速その一人を雇い入れ、いかにしてこの組合を追い出すかの戦略を練ったのです。
 結果的に、労働組合側は2年かかっても安っぽい労働契約しか取れなかったので、誰も組合を信用しなくなり、その翌年には追い出すことができました。しかし私の会社は4年越しの赤字が続いていました。それでも「ダム式経営」のおかげで、銀行にはまだ400万ドル以上の現金が残っていました。私は早速隣の土地を買い上げ、温室の増築をはじめました。

◎「愛」が入っていなかった 

 労働組合の問題で悩まされてから、私は自分のやり方のどこが間違っていたのかをずっと考え続けていました。つまり、何が原因で4年という年月を無駄にしたのかということです。

 その頃に東京で見つけたのが、稲盛塾長の著書『心を高める、経営を伸ばす』でした。私はこの本を帰りの飛行機で二度熟読しました。そしてそれぞれの項目に私自身を照らし合わせてみたのです。
 最初の項目は合格しましたが、「愛を施す」というところで引っかかりました。

 実は私は20年来のロータリー会員です。身分以上の寄付もしてきました。私の時間の三分の一は地方の役職や他人の世話に費やしてきました。従業員にも大盤振る舞いをしてきました。
 しかしこれらは、塾長のいわれる「愛を施す」というのには程遠かったのです。やっていることに「愛」が入っていなかったのです。
 わが社の大事なメキシコ人の従業員に「愛を施す」ことを怠っていたと、そのとき稲盛塾長は教えてくださったのです。

 私は早速、会社の組織改革にのりだしました。
 主なマネージャーと課長級の12人を全員メキシコ人に入れ替えました。私は一般の作業員にも「コモスタール!(元気か)」「アデオース!(さようなら)」と、気軽に大声で話しかける努力をしました。
 すると、たったこれだけで会社の雰囲気は変わりはじめ、利益率も改善してきたのです。そしてとうとう私は稲盛哲学のとりこになり、稲盛塾長の本を手当たり次第に読むようになったのです。

 当社の取り組むアメーバ方式では農場内での作業効率を上げると共に、マネージャーの負担を減らすために、5、6人のグループ制で仕事の「出来高払い制」を普及させました。これで時間給制に比べて20%ぐらいは作業効率が上がり、社員も給料が増えるので仕事も活気が溢れます。
 時間給の社員と週給制のアシスタントマネージャーたちには公開の勤務評定を毎年行い、給料をガラス張りにしました。営業部員には歩合制を加えて、給料の天井を取り除きました。
 また四人のマネージャーは各自の生産高と、会社の純益配分を重点にした給与体系に切り替えたので、私の給料は会社で八番目に没落しました。

 しかし組合問題は解決したものの、1989年頃からは南米からの安いバラの輸入攻撃を受けました。私はバラの販路を、宅配便を使った消費者への直売に切り替えるとともに、スーパーへのバラの花束攻勢をかけ、応戦したのです。この花束販売も目新しい商売で大きな注文が入るようになりましたが、またすぐに真似をする競争相手が出てくるのです。

 そこで私は単にマーケティングを変えるだけでなく、バラの「冷凍真空乾燥」という新しい技術を開発しました。大量の「フリーズドライローズ」を日本やヨーロッパ市場に輸出して、大きな利益を上げることができました。
 しかしこのフリーズドライの市場もコストの安い南米産が荒らしはじめました。
 1991年には、さらに南米からの切花の輸入が急増しました。

 私たちの町に65軒もあった花栽培農家のほとんどは、廃業しました。それでも私の手元には、まだ数百万ドルの株や現金が残っています。しかし、現金が手元にあると小型のジェット機が欲しくなるのです。
 そこで思いきって現金を土地に換えることしました。私のダム式経営はいつでも担保に使える「土地」を中心とした資産にしたのです。
 私はその後数年で総面積180ヘクタールの農地を買収しました。これらの土地はいずれも近い将来に市街地として開発される予定でした。数年後、予想通り市街地化が決定し、今ではほとんど買い手もつき、価格は10倍以上に値上りしました。
 私の「ダム式経営」は、今まさに水が溢れ出しそうになっていました。
 しかし私の花商売は相変わらず「切り花」を基本としたもので、コストの安い南米との競争は激しくなるばかりで、1994年には3回目の作付け転換の準備をはじめました。

<続きます>

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