「空っぽの時間」を意図的につくること。

8月26日。
今日を含めて6日で8月が終わる。
子どもたちの夏休みも終わる。
夏休み終了のカウントダウン。
糸井重里の「今日のダーリン」
先週の金曜日のエッセイ。
「夏休みのこどもの、空っぽの時間。」
――ぼくは、
戦後の豊かでない時代に生まれた人間なので、
いろんな「たのしみ」の商品もそろってなかったし、
たとえそういうものがあったとしても、
思うように買えるような生活をしてなかった。
私も同世代。
――いやぁ、ぼくの子ども時代の夏休みは、
太陽やら青空やら夕立やらプールやらという
一通りの舞台装置のなかにいたものの、
不思議とよく憶えているのは
「なにをしたらいいかぁ」と
日の光やら天井を眺めて
ぼんやりしている時間のほうだ。
わかる、わかる。
――ちょうどよくともだちがいて、
ちょうどよくどこかで遊んでいる時間も
もちろん多めにあったのだと思うけれど、
大人につきあってもらうような遊びは、
ほとんどまったくなかったし、
あいにくともだちが出払っている
「ひとり」の時間のほうを妙に思い出してしまう。
――明るくて、暑くて、
そうだなぁ、さみしい時間だ。
マンガを読んだりもしてたし、
多少は本も読んだ。
私も同じだ。
――それにしても、
あの「なにもすることがない」という
空っぽみたいな夏の時間のことは、
心に染み付いている。
――ちょっと盛り気味に言わせてもらえば、
ぼくは、主にあの「なにもすることがない」という
空虚な時間に育てられたような気がするのだ。
じみじみと同感。
――その空っぽな時間のなかには、
怖さと、さみしさと、
得体のしれない大切な栄養分があった。
――逃げようにも逃げられずに、
そこにいることが、
なにかを思うことや、
考えることをさせたのだと思える。
――実は、大人になっても、
「空っぽの時間」は必要なんだよね。
糸井重里の真骨頂。
こういった観点から、
名コピーが生まれた。
つくづくと同感させられる暑さだ。
右の銀杏の木はいつものように葉がついていない。
「空っぽの時間」を意図的につくる。
それが大事なことだ。
商売をやったり、
仕事をしたりしていると、
どうしてもそんな時間が足りなくなる。
いや、なくなる。
しかし「空っぽの時間」は、
実は空っぽではない。
さて子どもたちは夏休みだろうが、
私は仕事。
午前中は自宅で連載の校正。
それから月刊商人舎9月号の原稿整理。
キリがいいところで昼ごろ、
横浜商人舎オフィスに出社。
それから午後3時に、
浅間台歯科へ行って治療。
70歳を3年ほど過ぎて、
歯周病というわけではないが、
歯茎が弱ってきている。
もっと丁寧なブラッシングをしなければ。
すぐにオフィスに戻って、
再び仕事。
今度は講演のパワーポイントづくり。
私は結構、凝る。
写真を加え、フォントを工夫し、
構図を整える。
ここでも空っぽのスペースは大事だ。
レジュメ一枚で、
力を入れて講義することもあるが、
短時間の講演はビジュアルを増やして、
情報量をコントロールする。
そのビジュアルが説得力の一部となる。
生成AIも使わず、
自分らしいパワポをつくり込む。
明日からの紀文正月フォーラム。
ご期待ください。
〈結城義晴〉