結城義晴のBlog[毎日更新宣言]
すべての知識商人にエブリデー・メッセージを発信します。

2020年06月06日(土曜日)

西端春枝先生 ご逝去 98歳 心からご冥福を祈ります 合掌

西端春枝先生。
ご永眠。

98歳。
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心からご冥福を祈ります。

そしてお礼申し上げます。
ありがとうございました。

コロナ禍の渦中。
ご遺族は静かに弔って、
お別れの会は別途、開かれる。
私たちも心静かに悼みたい。

それでも結城義晴は、
その深いご恩を想い、
訃報を書いて残さねばならない。

西端春枝先生のお生まれは、
1922年(大正11年)3月。

流通業で言えば、
故中内功さんが同じ年の8月生まれ。
もちろんダイエー創業者。

商業界の故倉本初夫二代目主幹は、
一つ年下の1923年(大正12年)生まれ。

その一つ下の1924年(大正13年)組が、
イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊さん。
さらにその一つ下の1925年(大正14年)が、
イオン㈱名誉会長相談役の岡田卓也さん。
そしてその一つ下が、
ライフコーポレーションの清水信次さん。
1926年の大正15年生まれ。

西端先生は、
大阪府浄土真宗大谷派勝光寺で、
お寺さんの長女として誕生。
1941年(昭和16年)大谷女子専門学校卒業。
同年、大阪市内の小学校に奉職。
この同じ職場で西端行雄さんと出会う。

太平洋戦争に敗戦した1945年(昭和20年)、
戦後の教育方針に悩んで、教職を辞し、
翌1946年(昭和21年)に西端さんとご結婚。

教師を辞めて、商売の道へ。
2年間、夫婦で行商生活。

関塾経営者会報「ひらく」にある。

「毎日、歩けども歩けども、
品物はさっぱり売れませんでした」

「そんな状態が続いていた年末に、
ある村を訪れたときのことです。
それぞれが
商品を入れた風呂敷包みを抱えて
2時間後、正午を期して
二手に分かれたのですが、
村は餅つきで一軒も相手にしてくれず、
私はあきらめてすぐ戻りました。
主人は2時間断られても断られても
まわっていたらしく、
正午に戻ってきました。
降り出した雪の中、
分かれたときのままの荷物を持った主人は
傘を差し出す私の身軽な姿に
売りつくしたと勘違いし、
何ともいえぬすまなさそうな顔をしました。
今も目に残る愚直そのままの主人に、
心から尊敬の念を篤くして、
“二度と主人にこんな顔をさせては妻の恥だ”
と思ったのでした」

「その思いは、私の人生を
大きく支えてくれました」

㈱ヨークベニマルの「野越え山越え」と、
驚くほど似ている。

そのあと1950年(昭和25年)、
天神橋筋に戸板一枚の衣料品店を開業。
間口1間、奥行き1間半の「ハトヤ」だった。

しかしハトヤも簡単には売れなかった。

“モノを並べれば売れるだろう”くらいに
思っていた夫婦は、商いに対しては、
まったくの素人だったからだ。

「朝は始発前から
夜は終電が過ぎ行くまで
店を開けてはいたものの、
相変わらず物が売れない日々が
続くばかりです」

そんなある寒い時季のこと。

「裸電球が大きく揺れていました。
終電から降りてきた
仕事帰りのオジサンが、
私たちの店の前でふと足をとめ、
“オッサン、わい、
この灯見たら、ホッとするわ。
明日もつけといてや”と言うのです」

「そして、店の中で
パッキンケースの中で眠っている
2人の幼い子どもを見て、
“はよう寝させてやれ!
風邪引くやないか”と言いながら、
新聞紙に包んだふかし芋を
目の前に出してくださいました」

「こうして私たちは、
別に品物を買ってもらえなくても、
温かい人情に囲まれ、
育てられていったのです」

「あるとき、勉強会への誘いを受けます。
それが、商業界の礎を築いたといわれる
倉本長治氏、新保民八氏、岡田徹氏らが
講師を務めたゼミナールでした」

倉本長治は説いた。
店は客のためにあり、
店員とともに栄える。

岡田徹は詩を読んだ。
「小さな店であることを
恥じることはないよ。
その小さなあなたの店に
人の心の美しさを
一杯に満たそうよ」

西端行雄さんは深く感銘を受けた。
イオンの岡田卓也さん、
ダイエーの中内功さんも、
このゼミナールに参加していた。

「私たち夫婦は無知がゆえに、
思わぬ回り道を
してしまったかもしれません。
それでも主人は純粋に生きたいと
強く願う気持ちが
とても強かった人ですから、
“これからの日本を救えるのは、
地域に密着した商人である”
“店に足を運んでくださったお客様に、
私たち商人は無償の愛をもって
接するべきだ”という教えに
強い感銘を受けたのでしょう。
涙をぽろぽろこぼしながら、
ゼミで教わったことを夜を徹して
私に話して聞かせてくれました」

「その姿を前に私は、
わずか2泊3日のゼミで
あれだけ人の心が動かせる……
それこそが教育のあるべき姿なのだなと、
感心させられたものです」

11年後の1963年(昭和38年)、
4社合同合併の㈱ニチイが誕生。
当時、ダイエー、西友に次ぐ、
3番手のチェーンストアとなった。

西端行雄さんが社長、
西端春枝さんは、
ゼネラルカンセラーの役職に就いて、
4社の社員の意思統一に奔走。
1974年(昭和49年)、
ニチイの大阪市場株式上場を機に退職。
浄信寺の法務に着く。

その後は、
大谷派浄信寺副住職、
母校・大谷学園理事、並びに同校同窓会長。
和歌山刑務所篤志面接委員。
ボランテイア「雑巾を縫う会」会長、
商業界エルダー。
商業界全国女性同友会名誉会長。
商業界近畿女性同友会会長。
自立人間をめざす会大阪名誉会長。

講演などに東奔西走。

私は商業界編集長や社長のころから、
ずっと支援していただいた。

商業界を辞して、
2008年4月17日に、
商人舎発足の会が開催された。

西端先生は発起人に名を連ねて、
発足の会でもご挨拶してくださった。
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そして花束贈呈。
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感無量。
結城義晴は泣いた。
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この時も、
西端先生の私への注意の言葉は、
「無茶はアカン、無理はエエけど」

1982年、西端先生は、
最愛の夫に先立たれていた。
西端行雄、享年67。

余談ながら、
西端行雄さんがもっと長生きしたら、
マイカルは倒産することはなかった。
きっとユニーとも合併していた。
日本の流通世界は全く違っていた。
私は固く、そう信じている。

だから「無茶はアカン」と、
注意してくださった。
ストイックなご主人の激務を、
よくよく見ていたから、
「無理はエエけど」と付け加える。

私にも同じ言葉を、
ご主人に投げかけるように、
言ってくださった。

私は2009年度の商人舎標語にした。
「無茶はせず、無理をする」

2008年9月19日には、
商人舎主催「寺子屋研修会」を開催。
全面的に西端先生のお世話になった。

会場は大阪大谷派勝光寺。
その本堂で講演会をやった。
私も仏壇を前に講義した。
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西端先生の講話は胸に沁みた。
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その人を想いてわれは生き
その人を失いてわれは迷う
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行雄さんのことだ。

元マイカル社長の松井博史さん、
阪神百貨店社長の三枝輝行さんにも、
ご講演いただいて、
そのあと4人で、
パネルディスカッション。
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揃って記念写真。
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一昨年の商業界ゼミナール。
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私が基調講演をして、
講演後、西端先生にご挨拶。
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その後、西端先生は、
体調を崩されて、
昨年は入院などされた。

それでも私の誕生日や、
商人舎発足の日には、
直接、お電話をくださった。

商業界ゼミナールが、
最後となった。

おわりに結城義晴の「Message」から。

この文章にはモデルがある。
西端春枝さんがその一人だ。

「私の好きな人」 

笑顔の人。
はっきりとした人。
晴れやかな人。

機敏な人。
元気な人。
清潔な人。

素直な人。
明るい人。
意欲の人。

正義の人。
勇気の人。
まっ正直な人。

優しい人。
耐える人。
辛抱強い人。

太っていても、やせていても。
小さくても、大きくても。
若くても、老いていても。

女でも、男でも。
外国人でも、日本人でも。
貧しくても、豊かでも。

心の力にあふれた人。
頭の力を秘めた人。
言葉の力を知る人。

私の好きな人。
ほんものの商人。
素晴らしい人間。

合掌。

〈結城義晴〉

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