ヘモグロビンA1c[6.2]と同人誌「孼」の仲間との懇親

今日は二十四節気の霜降。
露が冷気によって霜となって降り始めるころ。
次は「立冬」と聞くと、
もう冬かと思う。
短い秋だった。
正午に東京・大手町。
天を指すようなモニュメント。

田嶼尚子医院長の内科。
毎月の血液と尿の検査。
そして診察。
ヘモグロビンA1cは6.2を堅持した。
グルコースと中性脂肪は少し高くなったが、
それでも全く問題なし。
尿酸値は一定しているので、
先月からフェブリックを止めてみた。
かつてヨーロッパ旅行をしているときに、
酷い痛風にかかった。
それ以来、フェブリックにお世話になっていた。
しかしずっと安定しているので、
薬を止めた。
ありがたい。
他の薬を処方してもらって、
トモズで入手。
充実感がある。
中学や高校のころ、よくやってきた店。
中二階があって広いと思っていたが、
そうでもない。
そして核店舗だった旧野沢屋のビル。
母はいつも「ノザワさん」と読んで、
敬愛しつつ愛用していた。
高校時代に文学同人誌をやっていた。
先輩から引き継いだ「孼(ひこばえ)」
その7人の仲間が3カ月ごとに集まる。
今日は 4人が欠席。
中学からの高校までの6年間、
同じ学校に通った。
先生たちの話題で盛り上がった。
ひこばえの顧問は土橋先生だった。
お世話になった。
「ジェンジェン」こと吉田先生。
鳥羽先生は代数を教えてくれたが、
「ソビエト連邦は必ず崩壊する」などと、
予言をして、それが当たった。
上田先生から西洋哲学を教わった。
私はなぜがその哲学者の名前を憶えている。
その上田先生は新聞会の顧問で、
城戸君は中学の3年間、面倒を見てもらった。
それから美術の「よーちゃん」こと菊池先生。
城戸君は高校の3年間、美術部にいた。
関君はずっと硬式テニス部で活躍した。
私は機械体操部だったが、
弱小の部活で下手くそだった。
それぞれ同じ場面を体験していながら、
違うことを覚えている。
それが60年を経過してわかった。
不思議なことだ。
私はこの6年間に、
学問の基礎的なことを学んだ。
それは感謝している。
今でもそれは生きていて、
モノを書くときに突然、浮かんでくる。
ありがたいことだ。
しかしこの6年間は、
私にとって暗い日々だった。
なぜか、抑圧されていた。
解放感がなかった。
城戸君は若いのに達観していた。
それが詩やエッセイに表現された。
私は当時、ひどく感心した。
「トーテムポール」の詩は、
今でも印象に残っている。
関君は世話役で、
小まめにみんなの面倒を見てくれた。
長編小説を連載で書いていた。
ちょっとませた高校生で、
フェリスの女学生などと付き合っていた。
その関君の社交性や実行力もあって、
「孼」が継続して発刊された。
先生方にもすごく印象が良かった。
用務員さんたちにも気に入られていた。
それで中学の理科の先生になった。
この仲間でよく、山に登った。
その場面でも違うことを感じ、
違うことを覚えている。
みんな73歳、あるいは72歳。
3カ月に一度の懇親で、
若返った気がした。
検査の結果も上々。
有難い一日だった。
誰に感謝したらいいのだろう。
朝日新聞「折々のことば」
第3503回。
SNSなどで情報をとる人が増えている。
新聞は「オールドメディア」と揶揄されている。
しかし、私は一方で活字派だ。
10月17日版。
素晴らしいものは、
誰のものでもないものだ。
〈長田弘〉
「ひとは豊かでいたい、
悦びを見つけたいと願い、
そのために『なくてはならないもの』を
わがものとして所有していたいと願う」
「が、所有できるものはいつか失われる。
本当になくてはならないのは、
所有できないものだけだ」
「水と石、葉の繁り、
午後の静けさ、鳥の影……。」
「大切なものには何一つ
『わたしのものはない』」
美しいものは、
独占してはならない。
それぞれの見方、感じ方で、
自分のものとするのだと思う。
ありがとう。
〈結城義晴〉




























