半藤一利「40年周期説」と「暮しの手帖」の「一銭五厘の旗」

80回目の終戦の日。
天皇陛下も三代代わって、
今上天皇がMessage。
「戦後の長きにわたる
平和な歳月に思いを致しつつ、
過去を顧み、深い反省の上に立って、
再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、
戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、
全国民と共に、心から追悼の意を表し、
世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」
「深い反省の上に立って」は初めての表現だ。
「世界の平和」と「一層の発展」を、
ともに祈りたい。
いつまでもいつも八月十五日
〈綾部仁喜〉
綾部は1929年生まれで、2015年に没した。
東京・八王子生まれの俳人。
毎日新聞一面コラム「余録」。
「維新から終戦までを上回る時が過ぎた」
明治維新から太平洋戦争終戦までが80年。
それからまた80年。
維新以降の日本の浮沈について、
「40年周期説」を唱えた。
1865年(慶応元年)、近代日本の勃興。
幕末の動乱期、江戸幕府が終焉を迎える、
その準備が着々と整いつつあった。
志士たちは世界の植民地化を知っていた。
それから逃れようと考えた。
1905年、日露戦争勝利。
日本が初めて西洋列強と互角に戦った年。
国際的に認められた瞬間。
日本の国威は大きく高まった。
1945年、第二次世界大戦の敗北。
日本は焦土と化し、
新しい国家体制を模索する。
近代日本の勃興から、
わずか80年で敗戦を迎えた。
半藤40年周期はその後も続く。
敗戦から7年後の1952年。
サンフランシスコ講和条約発効。
私が生まれた年。
日本は独立を回復。
半藤40年周期説では、
さらに40年が経過して、
1992年、バブル経済が崩壊。
日本経済は「失われた30年」に入る。
それから40年後の2032年には、
果たして何が起きるか。
半藤 一利は、1930年(昭和5年)に生まれ、
コロナ禍の2021年(令和3年)1月12日に没した。
2032年を見ることはなかった。
余録。
「継承すべきは日露戦争後40年の下り坂の記憶だ」
「攘夷から開国に転じ近代化に成功しながら、
『アジアの盟主』と過信して、
国際協調に背を向けた」
「満州事変以降は孤立を深め、
米英との衝突コースを歩んだ」
「戦後は独立後40年にわたって発展を続けたものの、
バブル崩壊で局面が変わった」
それからまた40年。
終戦の日はそんなことを、
深く考える。
朝日新聞「折々のことば」
第3464回。
戦争は、その姿を現す随分前から
始まっているものです。
おそらくは人々が口をつぐみ、
物申すことをやめたときから。
〈「暮しの手帖」編集部〉
「暮しの手帖」の初代編集長・花森安治。
1911年生まれ、1978年逝去。
戦地で上官に、
「貴様らの代わりは一銭五厘で来る」と、
葉書一枚の値に喩(たと)えられた。
戦後そんな時代への憤りを、
端切れを縫い合わせた旗に込め、
社の屋上に掲げた。
現編集部は、崩壊に瀕(ひん)する社会に、
今必要なのは各自の旗だと、
新たな「一せん五厘の旗」を立てる。
「暮しの手帖」8・9月号から。
花森は豪放な性格と反骨精神の持ち主だった。
おかっぱ頭でスカートをはくこともあった。
あの老舗名門雑誌も、
隔月刊になってしまった。
それでも花森譲りの反骨の旗は降ろさない。
「今、必要なのは各自の旗だ」
私もそれには賛同したい。
そしてそれを私は、
ポジショニングと呼ぶ。
チェーンストア戦略だけでなく、
それぞれの人生の戦略にも、
そして日本の国家戦略にも、
求められるのは、
独自のユニークなポジショニングである。
〈結城義晴〉