結城義晴のBlog[毎日更新宣言]
すべての知識商人にエブリデー・メッセージを発信します。

2008年04月05日(土曜日)

結城義晴・燃える闘病日記⑩最終回、私の両目に心より感謝!

自分の目に関する歴史を振り返る。
変なテーマですが、
私にとっては重要な出来事ばかりだったのです。

「㈱商業界に入社して」

さて、10歳からコンタクトレンズ常用者となった結城義晴。
右目コンタクト使用で、2.0。
左目裸眼で、0.7。

これで、編集記者としての仕事に邁進しておりましたが、
36の時に『食品商業』編集長となる。
40歳くらいから、会社の制度で、
毎年、人間ドックに入るようになる。

すると、40代中盤から、右目の緑内障を指摘される。

今から考えると、
左目ばかり酷使しているようでいて、
実際には見ていないように思われる方の目にも、
負担がかかるようになっているらしい。

さらに、右目は水晶体を摘出しているので、
眼球の大半の部分を占める硝子体(ガラス体)が、
後ろから圧迫を加え、それが眼圧を上げるよう作用していた。

そんなことを知らない結城義晴、
40歳から少年ソフトボールの監督を務める。
土曜・日曜、休祭日、休みなしで、
グランドに出る。
ノックの嵐、激戦続き、
チームはそこそこに知られるようになるものの、
右目はいつも風やほこり、ごみに悩まされた。

さらに、40代後半から、仕事にパソコンが入ってくる。
これも、目には負担のかかることばかり。

44歳のころ、取締役編集担当、
49歳の時、専務取締役編集統括、
そして50歳、代表取締役社長と、
役目は重くなっていきます。

そして、53歳の春、突然、網膜剥離にかかってしまうのです。

4月28日、午前中、横浜・大口のユニー関東本部で講演。
なぜか、この日は熱が入って、
2時間を超え、3時間近くの講演となりました。

どうも目の具合が悪く、
掛かり付けの山王病院眼科に行って検査してもらうと、
若い茶髪の医者は言う。
「そのまま動かずに、池尻の東邦大学病院に行ってください」

タクシーで、池尻へ。
北喜幸先生に診てもらったら、
「すぐに手術です。このまま入院してください」
私、講演のために、ダブルの濃紺のスーツを着ていた。
そのまま入院。
4月30日、午後8時から2時間半の手術。

剥がれていた右目の網膜を縫い合わせる処置を受けたのでした。

10歳からコンタクトをつけて、酷使した両目。
そのうちの弱い方の右目に、ストレスや疲労が集中する。
私の弱点なのです。

ゴールデンウイークを、東邦大学病院のベッドで過ごした後、
右目は、コンタクトをしても、0.7くらいしか見えませんでした。
直線が、ぎざぎざに見えるからです。

網膜というのは、目をカメラに例えると、フィルムの機能を担う。
そのフィルムが、剥がれてきたので、縫い合わせた。
だから映像がどんなにくっきりと、目の中に入って来ても、
写りこむフィルムが凸凹ならば、写りは悪い。
視力は出ない。

それでも、ゴルフなどのおとなしいスポーツは続けておりました。
少年ソフトボールは、監督を退き、チームの代表。

それから2年、㈱商業界を卒業し、
㈱商人舎を設立したばかりの今年2月、
右目の調子が悪く、
とうとうスーパーマーケットトレードショー前日の深夜12時ころ、
東邦大学病院にタクシーで乗り込むと、
眼圧が40台後半。
点滴を打って眼圧を下げてもらい、
有明ワシントンホテルに戻る。
翌日、北医師の診断で、緑内障の手術を決定。

単行本執筆や講演のスケジュールを調整して、
さらに4月17日の「商人舎発足の会」の前に、
手術日が設定されました。
この間、点滴を2回受けつつ、トレードショーを乗り切る。

結局、3月24日(月曜日)、入院。
そして25日(火曜日)、夕方、手術。

「緑内障の二度の手術模様」

さて、25日は、朝食をとってから、
手術を待つために、病室で安静に。
点滴を打ち、点眼をしつつ、手術を待つ。
手術直前
この日は、東邦大学病院で、
大安の日のホテル並みに手術が目白押し。

私が、自室をストレッチャーで出たのは、
時間
6時50分を回ったころでした。
ストレッチャー
ストレッチャーに乗せられて、
病院の、低い天井を見ながら、
手術室へ。
5階の自室から、エレベーターに乗り換えて、
移動2階、手術室へ。

昔、子供のころ、ベン・ケーシーというテレビドラマがあった。
そのイントロダクションが、こんな感じだった。
ストレッチャーで運ばれていく患者の視点からの映像だった気がする。
手術室へ
私は第6手術室。
この病院には、7つの手術室があるという。
手術室へ
手術室前までは、病棟担当の看護師が運ぶ。
白い制服。
いざ
手術室に入ると、手術担当の看護師。
みな水色の制服。
私は、頭に帽子をかぶせられる。

手術台に移し替えられると、
耳に音楽が聞こえた。
ゆずのメロディー。

すぐに左肩に注射。
右手には、血圧計。
5分ごとに自動的に膨らんで、血圧を圧迫し、
計測する。
手術中、この規則的に膨らんでは「プシュー」という音とともに計測する血圧計には、
なぜか精神的に助けられた。
励まされた。

胸には心電図のセット。
手術中、ずっと、「ピッピッピッ」という音を出している。
左手人差指の先には、サックがはめられ、
酸素が末端まで通っているかどうかをチェックする。

まず、両目に目薬を点される。
これがよく効く麻酔薬。
目薬だけで、十分な麻酔が効いて、
白眼に直接注射したり、メスを当てたりできる。

その後、右目の部分だけ穴のあいた布が顔にかぶせられ、
テープで右目の周りが固定される。

私はもう右目だけが、この世と繋がっているような気分。

そんなとき、右手の血圧計の5分ごとの「プファー」の音と、
心電図計の「ピッピッピッ」という音、
そしてゆずのメロディーが、私を癒してくれる。

麻酔が効いてきたら、右目に注射。
これが決定的に麻酔効果を高める。

その後、何でもないかのように、執刀、手術。
ときどき眼を洗い流す水が掛けられる。
右目で、物を見ているはずが、
その右目を切り開いて手術は行われている。

濃い灰色の背景に、二つの光が見える。
それだけ。
切られている感覚はないし、
メスが見えるわけでもない。

ただ濃い灰色の背景に、二つの光。

心電図と血圧計の音。
いつしか音楽は、ストリングスに変わっている。
左手の中指、薬指、小指がしびれてきた。

目に水をかけている。

富田教授の声。
北医師の相槌。

手術は淡々と進み、
十数回の血圧計のふくらみが終わると、
「これでいいだろう」
富田教授の声。

「やるべきことはやりました」

私の眼は、眼圧が高い。
眼圧を調節するために、眼中の水分を抜き取るパイプがあるが、
それが金属疲労をきたしている。

そこで、新たに、バイパスをつくる。

その手術。

人間の体は、傷が付けられると、
自然治癒力を持つ。
目にあけたバイパスは、自然に閉じられてしまう。
するとまた眼圧は高まる。

だからここに抗癌剤を塗りつけるという。

それによって、バイパスが保たれる。

しかし、バイパスが太すぎると、
今度は、眼圧が下がりすぎてしまう。

眼圧は低すぎても高すぎても、失明する。

だから、バイパスの太さを調整しなければならない。
それが、この緑内障手術のあとに施される大事な処置。

部屋に戻ると、夜9時を過ぎていた。
1時間ほど静養して、食事。
考えてみると、朝、食べてから何も口にしていない。

いつもの病院食。
お腹が「グー」と鳴った。
もちろん完食。

その夜は、意外にも熟睡。

翌26日、朝から診察。
眼を開いて、目薬を点し、
「正面を向いて」
「足元を見て」
「右を見て、左を見て、上を見て」

「眼圧は25です。様子を見ましょう」

私、この日も、ブログを書いた。
短いもの。
[毎日更新宣言]だから。
お約束だから。
手術後
さて、26日の夕方、富田教授の見立て、
「明日、硝子体をとりましょう。
ゲル状の硝子体が、バイパスに入り込んできている」

こんな経緯で、27日、二度目の手術をすることになった。
第2回手術後
手術は、やはり同じような手順を踏む。
準備も術式も。

これをマニュアル方式と呼ぶ。
マニュアル否定を唱える人がいる。
私は、それはおかしいと思う。
例えば、手術の時、
たくさんの人がそれにかかわる。
実際、二度目の手術には、富田教授は都合で立ち会えず、
北医師の執刀となった。

それでも、まったく同じ手順を踏んで、
つつがなく手術は行われた。
マニュアル方式を採用しない手術があるとしたら、
私は怖くて、御免こうむりたい。

同じ手順で、血圧計、心電図計が付けられ、
同じ手順で麻酔の目薬と注射が打たれた。
しかし、術式は違っていた。
今度は硝子体除去手術。

北医師の技術は高く、それでも、この二度目の手術にも、
1時間半がかかった。

無事、硝子体は取り除かれ、
バイパスへのゲル状の硝子体の侵入はなくなった。

この晩も、夜の食事、完食。

私は、元気だった。

「私の両目に、ありがとう」

振り返ってみると、
ずいぶん右目には迷惑をかけた。

10歳の夏。
あんなにも蛙を撃たなければ、
罰が当たることもなかったかもしれない。

学生時代、駆け出し時代。
あんなにも酷使しなければ、
網膜剥離や緑内障にならずに済んだかもしれない。

しかし、私は、振り返らない。
この手術も、
積極的な、攻めの手術だったし、
ポジティブな入院だった。

秋山先生、富田教授、北医師。
皆さんに感謝している。

皆さんのおかげで、仕事をすることができた。
皆さんのおかげで、ここまで生きてきた。

ありがとうございます。

何よりも、私自身のこの右目。
よく耐えてくれました。
そして、この左目。
よく支えてくれました。

両目が、互いにかばいながら、
ものを見続けたから、
今の私がある。

見たものを感じ、考える自分がいる。

私は、右目に対して、
四度の手術をしてもらいました。

どれも大きな手術でした。

どれも、私の人生に、影響をもたらした。

これからも、お世話になります。
この両目には。

ありがとう。

目を見開いて、合掌。

<結城義晴>

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