結城義晴のBlog[毎日更新宣言]
すべての知識商人にエブリデー・メッセージを発信します。

2008年04月09日(水曜日)

商人舎発足の会までのカウントダウン「あと8日」に『商業統計』速報される

4月17日、商人舎発足の会まで、
10日を切りました。
1週間と2日。

来週の木曜日、東京・お台場TFTホール。

今日から、カウントダウンさせていただきます。
「商人舎発足の会まであと8日」

緑内障の手術を受けてから、
なんとか立ち直って、
今日の日を迎えています。

自分では、あれもしなければ、これもしなければ、
といったことばかりなのですが、
「体に聞け!」
尊敬する親友、中央化学の川勝利一さんの助言。
私の場合は、
「右目に聞け!」
となるのですが。

川勝さんの助言に従って、
慎重に、それでいて精力的に、
仕事しています。

「精力的慎重さ」は、これも「オクシモロン」。
オクシモロンとは、ギリシャ語で、
「愚かな賢さ」といった意味。
転じて、「創造的破壊」や「へたうま」といった、
新しい革新的な概念を示すこととなった。

 

私の4時間の講義にも、ご期待が集まっているようです。
さまざまな業種業態の方々、
企業やお店の規模も様々、
そんな皆さんに、「なるほど」と思っていただいたうえで、
「日本商業・ホスピタリティビジネスの
現代化を目指す」

わが商人舎のポリシーを、訴えさせていただく。
そう考えて、オクシモロンでやっています。

講演会、パーティ、どちらも、
一応4月10日を締切としていますが、
「お客様のために」
と考えて行動する仲間、同志の皆さんの輪をつくりたい、
そんなことを願っていますから、
当日まで、お受け付けするよう、
事務局にはお願いしています。

どうぞ、大きな輪に加わってください。
地位も身分も、関係ありません。
志が一緒ならば、それは商人舎ファミリーなのです。

 

もうひとつ、お知らせです。
昨日から、このブログ風ホームページの左段に、
商人舎の「研修会」の詳細を掲載いたしました。

「渥美俊一のビッグストアづくりの急所」
(6月19日)

「第1回商人舎USAスーパーマーケット視察研修会」
(6月30日から7月6日)

お知らせを掲載してから1時間もしないうちに、
ファックスでのお申し込みがありました。

商人舎一同、感動。

ちょうどその時、
打ち合わせやネットメンテナンスに来てくださっていた面々も、
一緒に喜んでくださった。
山豊リザーブセンターの山本温さん、
商人ねっとの武智暁人さん、
エステックの須永清彦さん。

山本さんは、商人舎発足の会の会場運営全般をご担当くださる。
武智さんは、発足の会のサプライズ・ビジュアル担当。
須永さんは、商人舎のお申し込みデータベース担当。

さまざまな人の力で、一つのイベントが出来上がっていく。
私、こういう仕事の進み具合、
大好きなのです。
ワクワクしてきます。

ありがとうございます。

ご期待に添うよう頑張ります。

 

さて、私としては待ちに待った
「商業統計最新版」の速報が発表されました。

平成19年6月1日調査。
そして1年間かけて、まとめられたデータ。

5年ごとに、行われる悉皆調査。
「悉皆調査」とは「全数調査」とも言います。
すべてに当たって調べること。
反対語が「サンプル調査」または「標本調査」。
選挙の時の出口調査や新聞・テレビが行う政党支持率調査は、
サンプル調査の代表。

悉皆調査は、すべてに当たるため、
正しく事実が浮かび上がる。
「商業統計」は「商業における国勢調査」ともいわれ、
最も詳細で重要なデータが発表されます。
「工業統計」と並んで、日本の産業の趨勢を占うものです。

だからこれは、
商業に従事したり、商業を研究する者にとっての、
必須の前提となる。

商業とは、産業分類の中で卸売業と小売業を合わせたもの。
最新平成19年度版では、日本中の卸売業の年間商品販売額410兆6789億円。
同じく小売業は134兆5717億円。
ここで卸売業の総年間販売額は、小売業の3.05倍となります。
これが一つの大問題。
この倍率は、平成16年版で3.04倍、14年で3.06倍、11年で3.45倍、
そして9年で3.25倍。
すべての商材に関わる全卸売業の年間販売額と、
同じくすべての小売業の年間販売額が「3対1」に近い。

これ、不思議に思いませんか。

謎解きは、4月17日に。

4月17日には、時系列の動向を整理したうえで、
この「最新商業統計」分析もいたします。

現在、テキストを鋭意、制作中。
ご期待ください。

いずれにしても、
モノづくりは、
世界に誇る日本工業にお任せする。
モノを集めた「価値づくり」は、
私たちがお引き受けする。

この「価値づくり」が、
日本の消費社会、産業社会を救う。

私は、固く、そう信じているのです。

<結城義晴>

2008年04月08日(火曜日)

この時代の猛スピードを感じよう。イオン大幅若返り人事。

昨日、商人舎オフィスを、
相鉄ローゼン代表取締役社長・春日徹夫さんが、
訪問してくださった。
春日さんと

わがオフィスから100メートルほどのお隣さん。
私の退院祝いの花束を持って。
ありがとうございます。

2月1日、㈱商人舎設立の日にも、
実は、経営管理室マネジャー・込山敦志さんが、
花束を抱えて、ご訪問第1号となってくださった。
隣組はありがたい。

春日さんは、
「結城義晴君の独立と商人舎発足を祝う会」の
発起人のおひとり。
固い握手。

神奈川県のスーパーマーケットチェーン企業として、
頑張ってほしい。
横浜在住の商人舎全メンバーの生活上の問題でもある。

 

さて、2010年に向けて、
猛スピードで動いています。

「何が?」

「時代が」

一人ひとりの毎日は、
大きく変わることはないかもしれない。
一つひとつの店も、
一つ一つの会社も、
そんなに大きく変わることが、
頻発するわけではないかもしれない。
しかし、そのひとり一人、
一つ一つが、
集合した社会は、
あるいは業界、
あるいは産業は、
猛スピードで動いている。

そんな感じがします。

10日余り、病院に入っていて、
自分が全く動かずにいると、
動いているもののスピードが分かる。

わざわざお見舞いに来てくださったイオン常務執行役・堤唯見さん。
グループ・コミュニケーション担当から、
このたび、イオンディライトの代表取締社長に就任されることになった。
まずは、おめでとうございます、といわねばならないが、
イオンは、グループを挙げて、
トップマネジメント人事の、大幅な若返りを図った

時代のスピード感を、
イオンが感じ取っている証であります。

連結決算では、売上高5兆1673億円(7.1%増)
営業利益は1560億円(マイナス17.8%)
純利益439億円(マイナス23.8%)。

数字自体は、セブン&アイ・ホールディングスに比べても、
良くはない。
10年ぶりの営業減益。

しかし、イオンとマイカルの総合スーパーを100店閉鎖し、
「旧態依然とした店と決別する3年間」となる。
岡田元也社長の発言。
岡田元也さんも、「励まし祝う会」発起人。

時代のスピード感を、感じ取り、
それを「お客様のため」にと努力しながら、
ビジネスに展開させる。

私は、決して、急かしているつもりはありません。

しかし、2010年に向けて、動いている時代のことは、
皆さんに伝えねばならない。

だから今、あなたは何をしなければいけないのか。

「急がば回れ」(ことわざ)

「慌てず急げ」(結城義晴)

一人ひとりの毎日は、
大きく変わることはないかもせれない。
一つひとつの店も、
一つ一つの会社も、
そんなに大きく変わることが、
頻発するわけではないかもしれない。
しかし、その一人ひとり、
一つ一つが、
集合した社会は、
あるいは業界、
あるいは産業は、
猛スピードで動いている。

これだけは確かです。

このスピード感を、味わうもよし。
このスピード感に、乗るもよし。
このスピード感を、眺めるもよし。
このスピード感に、逆行するもよし。

私は、そう思う。

病院帰りの結城義晴。

しかし私自身は、相も変わらず、
「今日も一日、慌てず急げ」

考えてみるとこれは、
生まれてこの方の、
私の習性のようです。

それぞれに、
時代のスピード感を、
認識してください。
そして行動してください。

それが21世紀に入った今を、
生きていることなのです。

<結城義晴>

2008年04月07日(月曜日)

4月第2週いい季節、「櫂より始めよ」⇒「朝食から始めよ」

Everybody! Good Monday!

2008年4月第2週です。結城義晴、本格復帰です。仕事、溜まっています。
ご迷惑おかけしました。
雑誌原稿、セミナーのレジュメ、テキスト、
さまざまな企画づくり、
取材、インタビュー、
面会、勉強。

現在、目指しているのは、

4月17日「商人舎発足の会」

私の講演は、
「小売流通サービス業が
21世紀の日本を救う」

ちょっと大げさなタイトルですが、
全身全霊を込めた4時間の講演です。

「技術を体得した知識商人」が、
知識社会となった日本の、
その消費社会と産業社会において、
大きく貢献する時代がやってくる。

それを謳いあげる。

元気を出して、誇りを持って、
仕事に献身しましょう。

そんなアピールをしたい。
そんな気概を共有したい。

まだまだ、多くの方々に、
お集まりいただきたいと思っています。

よろしくお願いいたします。

 

セブン&アイ・ホールディングスは好決算を出しました。
コンビニの業績回復が、貢献した。

イオンも岡田元也さんが持ち株会社社長となって、
これからの体制を決定しました。

小売流通業界、トップ企業も、
「自ら、変われ!」を実践しています。

一段とスピードアップしたイノベーションを推進しつつあります。

みな、負けるわけにはいきませんよ。

「自ら、変わる」競争は、
自分と向き合うことから始まります。
だから、
「櫂より始めよ」
これです。

 

さて、横浜市西区北幸の商人舎オフィスに2週間ぶりに出ると、
私のデスクの背後にある桜の木は、
もう青々とした新緑を見せています。

「滔々たる荒川のほとり、
万緑の河畔、あくまで緑」

人生劇場第2番の語りを思い出させてくれるような季節の到来。

桜は、まだまだ楽しめますが、
そのあとの新緑も、
私、大好きなのです。

そんな4月、第2週。
4月は、みな、
規則正しい生活を始めたいと考える時。

毎日の、規則正しい生活は、
「朝食から始まる」

だから、食品関係、スーパーマーケットの皆さん、
「朝食を豊かに」
「朝食をスピーディに」
「朝食を楽しく」

こんな提案をしてくださると、うれしい。

病院に2週間ほど入っていると、
規則正しい生活ができる。
これが入院の最大メリット。
規則正しい生活の基盤は、規則正しい食生活。
その3度の食事の中で、
働く人、勉強する人、
みな一般に、昼食は簡便食となりやすい。
簡易な外食にもなりやすい。
夕食は、不確定要素が多い。
不規則になりやすい。

しかし、朝食だけは、
自分たちで、家庭で、
規則正しくコントロールすることができる。

規則正しくできるし、規則正しくやりたいと思っていながら、
それが実現しにくいのも、最近の家庭の実態。

つまり、できるのにできない「朝食」。

だからこそ、この提案が重要となる。

規則正しい生活は、
「朝食から始めよ」。

これです。

熊本県の見立高校の校長先生として、
「悪戦苦闘能力」を持って、
苦労しながら華々しい成果を上げられた大畑誠也校長先生、
このたび4月から「九州ルーテル学院大学客員教授」に
ご就任されました。

わが商人舎でも、
研修会などにお願いする同志となっていただきますが、
この大畑教授、数々の学校を
「朝飯を食おう」と運動を起こすところから、
立て直した。
それが全国のモデルとなった。

「朝飯」のまえに、
「挨拶しよう」があったのですが。

この考え方、このアプローチ、
私、素晴らしいと思う。

だから、私たちも、今月は、
「朝食から始めよう」

それには、私も、あなたも、
まず自分の朝食をきちんと摂ること。
つぎに家族の朝食をきちんと摂らせること。
ここから始めねばなりません。

「櫂より始めよ」

「朝食より始めよ」

これ、つながってくる。

Everybody! Good Monday!

<復帰した結城義晴>

 

2008年04月06日(日曜日)

ジジの安堵[日曜版]

帰ってきました。
ユウキヨシハルさん。

ビョウインから。

シュジュツして。

ジジと花
お花もとどきました。
きれいなお花。

ありがとうございます。

ボクよりも、
おおきい。
ジジと花2

うれしい!
おいしそう。ジジと花3

ユウキヨシハルさん、
帰ってくると、
サンポにでかける。
まいにち。

空気をいっぱいすって。
キクナ池公園。
花見1

サクラ、きれいだった。
「間に合った」
そう言ってた。
花見2

ダイコンの花も、
たくさん、さいてた。花見3

ボクは、
あんしんしました。
さいしょは、なんだかちょっと、
はずかしかったけど。

あんしんすると、
ねむくなる。
安心2
まぶたが、おもくなる。

まーるくなって、安心3ねる。

あんしんして、
ながーくなって、安心ねる。

シュジュツは、たいへんだった。
ながいブログ、かいてた。

よる、ちかくのミョウレン寺。
門のところに、でていた。
シュジュツ、きっと、妙蓮寺
こんなかんじだった。

ボクも、あんしんしました。
夜1

また、シンプル・ライフが、
はじまります。
夜2
それが、
「いちばん 大切なこと」

今度の本の、
タイトルだそうです。

<『ジジの気分』(未刊)より>

2008年04月05日(土曜日)

結城義晴・燃える闘病日記⑩最終回、私の両目に心より感謝!

自分の目に関する歴史を振り返る。
変なテーマですが、
私にとっては重要な出来事ばかりだったのです。

「㈱商業界に入社して」

さて、10歳からコンタクトレンズ常用者となった結城義晴。
右目コンタクト使用で、2.0。
左目裸眼で、0.7。

これで、編集記者としての仕事に邁進しておりましたが、
36の時に『食品商業』編集長となる。
40歳くらいから、会社の制度で、
毎年、人間ドックに入るようになる。

すると、40代中盤から、右目の緑内障を指摘される。

今から考えると、
左目ばかり酷使しているようでいて、
実際には見ていないように思われる方の目にも、
負担がかかるようになっているらしい。

さらに、右目は水晶体を摘出しているので、
眼球の大半の部分を占める硝子体(ガラス体)が、
後ろから圧迫を加え、それが眼圧を上げるよう作用していた。

そんなことを知らない結城義晴、
40歳から少年ソフトボールの監督を務める。
土曜・日曜、休祭日、休みなしで、
グランドに出る。
ノックの嵐、激戦続き、
チームはそこそこに知られるようになるものの、
右目はいつも風やほこり、ごみに悩まされた。

さらに、40代後半から、仕事にパソコンが入ってくる。
これも、目には負担のかかることばかり。

44歳のころ、取締役編集担当、
49歳の時、専務取締役編集統括、
そして50歳、代表取締役社長と、
役目は重くなっていきます。

そして、53歳の春、突然、網膜剥離にかかってしまうのです。

4月28日、午前中、横浜・大口のユニー関東本部で講演。
なぜか、この日は熱が入って、
2時間を超え、3時間近くの講演となりました。

どうも目の具合が悪く、
掛かり付けの山王病院眼科に行って検査してもらうと、
若い茶髪の医者は言う。
「そのまま動かずに、池尻の東邦大学病院に行ってください」

タクシーで、池尻へ。
北喜幸先生に診てもらったら、
「すぐに手術です。このまま入院してください」
私、講演のために、ダブルの濃紺のスーツを着ていた。
そのまま入院。
4月30日、午後8時から2時間半の手術。

剥がれていた右目の網膜を縫い合わせる処置を受けたのでした。

10歳からコンタクトをつけて、酷使した両目。
そのうちの弱い方の右目に、ストレスや疲労が集中する。
私の弱点なのです。

ゴールデンウイークを、東邦大学病院のベッドで過ごした後、
右目は、コンタクトをしても、0.7くらいしか見えませんでした。
直線が、ぎざぎざに見えるからです。

網膜というのは、目をカメラに例えると、フィルムの機能を担う。
そのフィルムが、剥がれてきたので、縫い合わせた。
だから映像がどんなにくっきりと、目の中に入って来ても、
写りこむフィルムが凸凹ならば、写りは悪い。
視力は出ない。

それでも、ゴルフなどのおとなしいスポーツは続けておりました。
少年ソフトボールは、監督を退き、チームの代表。

それから2年、㈱商業界を卒業し、
㈱商人舎を設立したばかりの今年2月、
右目の調子が悪く、
とうとうスーパーマーケットトレードショー前日の深夜12時ころ、
東邦大学病院にタクシーで乗り込むと、
眼圧が40台後半。
点滴を打って眼圧を下げてもらい、
有明ワシントンホテルに戻る。
翌日、北医師の診断で、緑内障の手術を決定。

単行本執筆や講演のスケジュールを調整して、
さらに4月17日の「商人舎発足の会」の前に、
手術日が設定されました。
この間、点滴を2回受けつつ、トレードショーを乗り切る。

結局、3月24日(月曜日)、入院。
そして25日(火曜日)、夕方、手術。

「緑内障の二度の手術模様」

さて、25日は、朝食をとってから、
手術を待つために、病室で安静に。
点滴を打ち、点眼をしつつ、手術を待つ。
手術直前
この日は、東邦大学病院で、
大安の日のホテル並みに手術が目白押し。

私が、自室をストレッチャーで出たのは、
時間
6時50分を回ったころでした。
ストレッチャー
ストレッチャーに乗せられて、
病院の、低い天井を見ながら、
手術室へ。
5階の自室から、エレベーターに乗り換えて、
移動2階、手術室へ。

昔、子供のころ、ベン・ケーシーというテレビドラマがあった。
そのイントロダクションが、こんな感じだった。
ストレッチャーで運ばれていく患者の視点からの映像だった気がする。
手術室へ
私は第6手術室。
この病院には、7つの手術室があるという。
手術室へ
手術室前までは、病棟担当の看護師が運ぶ。
白い制服。
いざ
手術室に入ると、手術担当の看護師。
みな水色の制服。
私は、頭に帽子をかぶせられる。

手術台に移し替えられると、
耳に音楽が聞こえた。
ゆずのメロディー。

すぐに左肩に注射。
右手には、血圧計。
5分ごとに自動的に膨らんで、血圧を圧迫し、
計測する。
手術中、この規則的に膨らんでは「プシュー」という音とともに計測する血圧計には、
なぜか精神的に助けられた。
励まされた。

胸には心電図のセット。
手術中、ずっと、「ピッピッピッ」という音を出している。
左手人差指の先には、サックがはめられ、
酸素が末端まで通っているかどうかをチェックする。

まず、両目に目薬を点される。
これがよく効く麻酔薬。
目薬だけで、十分な麻酔が効いて、
白眼に直接注射したり、メスを当てたりできる。

その後、右目の部分だけ穴のあいた布が顔にかぶせられ、
テープで右目の周りが固定される。

私はもう右目だけが、この世と繋がっているような気分。

そんなとき、右手の血圧計の5分ごとの「プファー」の音と、
心電図計の「ピッピッピッ」という音、
そしてゆずのメロディーが、私を癒してくれる。

麻酔が効いてきたら、右目に注射。
これが決定的に麻酔効果を高める。

その後、何でもないかのように、執刀、手術。
ときどき眼を洗い流す水が掛けられる。
右目で、物を見ているはずが、
その右目を切り開いて手術は行われている。

濃い灰色の背景に、二つの光が見える。
それだけ。
切られている感覚はないし、
メスが見えるわけでもない。

ただ濃い灰色の背景に、二つの光。

心電図と血圧計の音。
いつしか音楽は、ストリングスに変わっている。
左手の中指、薬指、小指がしびれてきた。

目に水をかけている。

富田教授の声。
北医師の相槌。

手術は淡々と進み、
十数回の血圧計のふくらみが終わると、
「これでいいだろう」
富田教授の声。

「やるべきことはやりました」

私の眼は、眼圧が高い。
眼圧を調節するために、眼中の水分を抜き取るパイプがあるが、
それが金属疲労をきたしている。

そこで、新たに、バイパスをつくる。

その手術。

人間の体は、傷が付けられると、
自然治癒力を持つ。
目にあけたバイパスは、自然に閉じられてしまう。
するとまた眼圧は高まる。

だからここに抗癌剤を塗りつけるという。

それによって、バイパスが保たれる。

しかし、バイパスが太すぎると、
今度は、眼圧が下がりすぎてしまう。

眼圧は低すぎても高すぎても、失明する。

だから、バイパスの太さを調整しなければならない。
それが、この緑内障手術のあとに施される大事な処置。

部屋に戻ると、夜9時を過ぎていた。
1時間ほど静養して、食事。
考えてみると、朝、食べてから何も口にしていない。

いつもの病院食。
お腹が「グー」と鳴った。
もちろん完食。

その夜は、意外にも熟睡。

翌26日、朝から診察。
眼を開いて、目薬を点し、
「正面を向いて」
「足元を見て」
「右を見て、左を見て、上を見て」

「眼圧は25です。様子を見ましょう」

私、この日も、ブログを書いた。
短いもの。
[毎日更新宣言]だから。
お約束だから。
手術後
さて、26日の夕方、富田教授の見立て、
「明日、硝子体をとりましょう。
ゲル状の硝子体が、バイパスに入り込んできている」

こんな経緯で、27日、二度目の手術をすることになった。
第2回手術後
手術は、やはり同じような手順を踏む。
準備も術式も。

これをマニュアル方式と呼ぶ。
マニュアル否定を唱える人がいる。
私は、それはおかしいと思う。
例えば、手術の時、
たくさんの人がそれにかかわる。
実際、二度目の手術には、富田教授は都合で立ち会えず、
北医師の執刀となった。

それでも、まったく同じ手順を踏んで、
つつがなく手術は行われた。
マニュアル方式を採用しない手術があるとしたら、
私は怖くて、御免こうむりたい。

同じ手順で、血圧計、心電図計が付けられ、
同じ手順で麻酔の目薬と注射が打たれた。
しかし、術式は違っていた。
今度は硝子体除去手術。

北医師の技術は高く、それでも、この二度目の手術にも、
1時間半がかかった。

無事、硝子体は取り除かれ、
バイパスへのゲル状の硝子体の侵入はなくなった。

この晩も、夜の食事、完食。

私は、元気だった。

「私の両目に、ありがとう」

振り返ってみると、
ずいぶん右目には迷惑をかけた。

10歳の夏。
あんなにも蛙を撃たなければ、
罰が当たることもなかったかもしれない。

学生時代、駆け出し時代。
あんなにも酷使しなければ、
網膜剥離や緑内障にならずに済んだかもしれない。

しかし、私は、振り返らない。
この手術も、
積極的な、攻めの手術だったし、
ポジティブな入院だった。

秋山先生、富田教授、北医師。
皆さんに感謝している。

皆さんのおかげで、仕事をすることができた。
皆さんのおかげで、ここまで生きてきた。

ありがとうございます。

何よりも、私自身のこの右目。
よく耐えてくれました。
そして、この左目。
よく支えてくれました。

両目が、互いにかばいながら、
ものを見続けたから、
今の私がある。

見たものを感じ、考える自分がいる。

私は、右目に対して、
四度の手術をしてもらいました。

どれも大きな手術でした。

どれも、私の人生に、影響をもたらした。

これからも、お世話になります。
この両目には。

ありがとう。

目を見開いて、合掌。

<結城義晴>

2008年04月04日(金曜日)

結城義晴・燃える闘病日記⑨退院後、自分の目に関して振り返る

昨日、退院しました。
お花、お便り、メール、電話など、
本当にありがとうございます。

入院や手術、退院を、
宣伝しながら挙行しているみたいですが、
[毎日更新宣言]となると、
そうなってしまいます。

でも、こういったときの励ましのお花や、
思いやりに満ちたお言葉は、
本当にありがたいものです。

ですから、私、まったくといってよいほど、
後悔や不安がありませんでした。

ずっと、前向きに、それでいて冷静に、
ものを考え、行動することができました。

ありがとうございます。

そこで、退院記念に(?)
私の眼といくつかの手術を、思い出しながら、
振り返ってみようと思います。

時間は、45年前にさかのぼります。
結城義晴、10歳の夏。

私は、横浜に暮らしていました。
小学校4年生。

夏休みに、両親とともに、福岡の田舎に帰りました。
福岡県早良郡早良町大字小笠木字脇山村。
私の生まれ故郷です。

ここに、結城一族が住んでいるのですが、
私は叔父の家に、1カ月近くも、居座って、
田舎暮らしを満喫していました。
同じ年の従兄たちと、
野山を駆け巡り、
虫を捕ったり、花を摘んだり、
それはもう大自然の中で、
のびのびと生活していたのでした。

この夏は、とりわけ手作りのパチンコで遊びました。
木の股を切り取ってきて、
そこに太いゴムをかける。
そしてパチンコをつくる。
竹を削って、細い矢のようなものをつくる。

それで、蛙を撃つのです。
残酷な遊びです。

夏中、私たちは、田んぼの畦で、
何百匹もの蛙を撃ちました。
矢が、蛙の背中から腹まで、突き通される。
それを高々と持ち上げて、収獲とする。

竹の矢じりだけでなく、
針金をU字型に曲げて、
それを打つという遊びもしていました。

ある暑い日の午後、見事なアゲハ蝶が、
叔父の家の縁側にひらりひらりと飛んできました。

たった一人で退屈していた私は、
パチンコを取り出し、
U字型の弾を引っ掛け、
アゲハ蝶にねらいを定めました。

思い切りゴムを引っ張って、
弾を解き放つ。

それ以来、私の右目は、
視力を失いました。

針金の弾が、跳ね返って、
右目に刺さってしまったのでした。

ダークダックスというコーラスグループがありました。
リーダーは、確か、「マンガさん」。
そんなあだ名のついた小柄な人でした。

私の右目は、あの「マンガさん」と同じ症状となりました。

それまでは、両目とも1.5でした。

このときから、右目には霞がかかって、見えません。

近所の眼科で応急処置をしてもらって、
私は横浜に帰りました。

何軒もの眼科医を訪れました。
母が、とりわけ心配してくれました。

ちょうどそのころ、横浜の関内に、
秋山眼科がオープンしました。

若き病院長・秋山先生は、
ドイツ仕込みの最先端の技術を持っていました。

その秋、私は、
水晶体摘出手術を受けました。

子供でしたから、完全麻酔。
注射を打たれて寝ているうちに、右眼のレンズは除去され、
1カ月間、両目に包帯を巻かれて暮らしました。

包帯も眼帯も取れたとき、
私の右目は、ものが鮮明に見えるわけではないのですが、
以前より、くっきりと光をとらえるようになっていました。

昭和37年、目に備わっていたレンズを失った代わりに、
私は、10歳にして、ケース
コンタクトレンズ常用者となったのでした。

当時の秋山眼科は、欧米のクリニックそのものの、
洗練されたオフィスでした。
そこに美しいモデルのような看護婦さんがたくさんいて、
みなコンタクトレンズの扱い方や保管の仕方などを、
コンサルティングしてくれました。

私の右目は、分厚い凸レンズを、黒眼につけると、
2.0の視力を出しました。

ものが両目で、くっきりと見える。

私の右目は、復活したのでした。

しかし、それは遠くを見るときの場合。
近くを見ると、視点が固定されているために、
ぼけている。

以来、私は、書かれたものをずっと左目で見るようになります。

スポーツも大好きでしたが、
屋外の競技や接触プレーのある種目は、
積極的には、できませんでした。
クラブ活動は、従って中学高校と6年間、器械体操。
屋内競技で、接触プレーのないもの。

もちろん野球やサッカー、バスケットボールなど、
球技は大好きでしたので、
授業や遊びでは、楽しみました。
しかし、本格的にはできないものと、
はじめから、あきらめていました。

大学受験の時、
夜中に、突然、その左目も、真っ暗になって、
見えなくなったことがあります。

それでも、明け方、恐る恐る目をあけると、
光が光が入ってきて、
心の底から安堵したことを覚えています。

大学時代は無頼派。
夜ごと飲んだくれて、
目に良いはずはない。

べろべろに酔っぱらって、バク天をする。
それが当時の私の芸でした。

その後、学校を出て、
私は、㈱商業界に入社しました。

雑誌の出版社に入ってしまったのです。

『販売革新』という編集部に配属されると、
私は、毎月のように、
何夜も徹夜で原稿書きを始めました。

右目にはコンタクトレンズ、視力2.0.
左目は裸眼、視力0.7といったところでした。

20代中頃、いつしか左目にも、
ハードコンタクトレンズが入っていました。

それでも、若さに任せて、目を酷使し続けてきました。
自分では、それほどの不自由もハンデも感じませんでした。

私の仕事は、お店を見ること、
商品を見ること、
人の話を聞くこと、
それを文章にまとめること。

日本中のお店を見て歩きました。
アメリカやヨーロッパのお店まで巡りました。
すべて、私の眼を通して見たものばかりです。
メガネ
よく耐えてくれたと思います。
今では、メガネにもお世話になっていますが。

今、こんな仕事ができるのも、
みな、私の目のおかげです。
秋山先生のおかげです。

だから、私は目の手術をしても、
ありがたいとしか、思いません。

ダークダックスのマンガさんのように、
なっていたかもしれないからです。

江戸時代ならば、伊達政宗か柳生十兵衛、丹下左膳。
昭和でも、30年代前半に怪我をしたのならば、
ほぼ同様だったでしょう。

昭和37年だったから、水晶体摘出手術が受けられた。
現在の白内障です。

そして、私は、その右目に、
次の試練を受けることになるのです。

<明日につづく、結城義晴>

2008年04月03日(木曜日)

結城義晴・燃える闘病日記⑧東邦大学大橋病院を退院します、すべての人に感謝しながら。

突然ですが、プロフェッサー富田から、
退院の許可が、発せられました。

今日、4月3日、晴れて、退院。
ありがたいことです。
ベッド
ベッド、パソコン、お世話になりました。

昨日、バイク便で、単行本の再校が届けられました。
それを、読みつつ、退院します。
再校
「『お客様のため』に、いちばん大切なこと」
単行本をつくりながらの入院。
「ポスト資本主義社会の中の知識商人」
商業現代化を考えながらの退院。

繰り返しますが、
「知識商人」は、
「専門知識」とともに、
「専門技術」を持っていて、
しかもそれを駆使しながら、
「お客様のため」に、
行動できる職業人のことです。

ここで重要なのは、
行動できること、
実行できること、
実践できること。
結果として、
お客様の満足を、
実現できること。

最後のところが「知識商人」として、
大切なことです。

一般にいわれる「モノ」だけではなく、「コト」も大切。
これが、「知識商人の専門知識」の一部でもあります。

モノの典型としての「コモディティ・グッズ」も、
人が生活していく上では不可欠です。
今、日本中がガソリンに注目しているように。

ガソリンなしでは、車は走らない。
ガソリンは、レギュラーとハイオクしかない。
だから、ガソリンに「コト」販売はしにくい。
一方、ノンコモディティには、
さまざまな「コト」が付随している。
それをお客様から「待ってました」といわれるくらいに、
お客様の目の前に御披露する。
それが、「知識商人の専門知識」の「見える化」です。

さて、3月24日に入院した時には、
右目の眼圧が47にも上がっていました。
「このままでは失明する」
そう言われました。

しかし今朝、その眼圧は14に下がりました。
正常な左目とかわらない状態に。

ありがたいことです。

病室の廊下から見える景色にも、
桜の絵柄が入りました。
景色

私の病室の窓から見える空も、
くっきりとしてきました。
窓の外3

最後の朝食も、
完食。最後の朝食

二度の手術の後の、夜中の食事も、
ご飯一粒、残さず食べてきました。

本当にありがたいことです。

でも、入院の予定は2週間でしたから、
退院したといっても、
今週いっぱいは自宅療養します。
ありがとう

それからです、
パワー全開で、4月17日、
商人舎発足の会へ突入です。

元気になった結城義晴に、
会いに来てください。

「目一杯の元気を差し上げます!」

商人舎発足の会、
「流通業界のVIPをこんなに集めて、
何かあったらどうするんだ」

こう言われました。

そう考えると、恐ろしいくらいです。

21世紀の日本商業を担う人ばかり。

でも、お集まりいただく「発起人」の皆さん。
規模が大きな会社の社長さん、会長さんばかりでは、
ありません。

「本物の商人」
「本当の親友」
「素晴らしい同志」

私がこう考える人に、
たくさん発起人になっていただきました。

岩手県の小松製菓・小松務さん、
石川県の芝寿し・梶谷晋弘さん、
埼玉県のダスキンくりはらの栗原一博さん。
それに足利屋洋品店店主・「虹の架橋」編集長の松崎靖さん、
福岡県のむすんでひらいて原田政照さん。

さらに、ニチイ創業者夫人の西端春枝さん。
私の尊敬する人です。

もっともっと多くの人にも、
お集まりいただきます。

会社や売上高の規模だけではないのです。

昭和30年代のことです。
箱根の商業界ゼミナールの一室。
深夜。

倉本長治先生をはじめとするそうそうたる先生方が、
談笑したり、議論したりしていました。

その後お菓子のタカラブネを創業することになる野口五郎さん。

遠くで、その光景を見ていました。

すると長治先生が言いました。
「野口君、こっちに来て、仲間に入りなさい。
君も、僕たちの仲間なんだから」

そう声をかけられた野口さん、
涙が出るほどうれしかったそうです。

そして、そこから勉強を重ねて、
タカラブネのチェーンをつくりました。

大切なのは、
自分に誇りを持つことです。
誇りを持てるように努力することです。
努力すると決意することです。

それだけでももう、
仲間であり、
同志なのです。

私は、4月17日を、そんな日にしたいのです。
イオン岡田元也さんやユニクロ柳井正さんと、
仲間になっていただきたいのです。
同志として、同じ空気を吸っていただきたいのです。

私の友達は、みんな仲間。
みんな同志です。

「お客様のために」と
仕事し続ける「知識商人」なのです。

退院します。
感謝の気持ちを、胸一杯にして。
ありがとうございました。

<結城義晴>

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