結城義晴のBlog[毎日更新宣言]
すべての知識商人にエブリデー・メッセージを発信します。

2008年04月04日(金曜日)

結城義晴・燃える闘病日記⑨退院後、自分の目に関して振り返る

昨日、退院しました。
お花、お便り、メール、電話など、
本当にありがとうございます。

入院や手術、退院を、
宣伝しながら挙行しているみたいですが、
[毎日更新宣言]となると、
そうなってしまいます。

でも、こういったときの励ましのお花や、
思いやりに満ちたお言葉は、
本当にありがたいものです。

ですから、私、まったくといってよいほど、
後悔や不安がありませんでした。

ずっと、前向きに、それでいて冷静に、
ものを考え、行動することができました。

ありがとうございます。

そこで、退院記念に(?)
私の眼といくつかの手術を、思い出しながら、
振り返ってみようと思います。

時間は、45年前にさかのぼります。
結城義晴、10歳の夏。

私は、横浜に暮らしていました。
小学校4年生。

夏休みに、両親とともに、福岡の田舎に帰りました。
福岡県早良郡早良町大字小笠木字脇山村。
私の生まれ故郷です。

ここに、結城一族が住んでいるのですが、
私は叔父の家に、1カ月近くも、居座って、
田舎暮らしを満喫していました。
同じ年の従兄たちと、
野山を駆け巡り、
虫を捕ったり、花を摘んだり、
それはもう大自然の中で、
のびのびと生活していたのでした。

この夏は、とりわけ手作りのパチンコで遊びました。
木の股を切り取ってきて、
そこに太いゴムをかける。
そしてパチンコをつくる。
竹を削って、細い矢のようなものをつくる。

それで、蛙を撃つのです。
残酷な遊びです。

夏中、私たちは、田んぼの畦で、
何百匹もの蛙を撃ちました。
矢が、蛙の背中から腹まで、突き通される。
それを高々と持ち上げて、収獲とする。

竹の矢じりだけでなく、
針金をU字型に曲げて、
それを打つという遊びもしていました。

ある暑い日の午後、見事なアゲハ蝶が、
叔父の家の縁側にひらりひらりと飛んできました。

たった一人で退屈していた私は、
パチンコを取り出し、
U字型の弾を引っ掛け、
アゲハ蝶にねらいを定めました。

思い切りゴムを引っ張って、
弾を解き放つ。

それ以来、私の右目は、
視力を失いました。

針金の弾が、跳ね返って、
右目に刺さってしまったのでした。

ダークダックスというコーラスグループがありました。
リーダーは、確か、「マンガさん」。
そんなあだ名のついた小柄な人でした。

私の右目は、あの「マンガさん」と同じ症状となりました。

それまでは、両目とも1.5でした。

このときから、右目には霞がかかって、見えません。

近所の眼科で応急処置をしてもらって、
私は横浜に帰りました。

何軒もの眼科医を訪れました。
母が、とりわけ心配してくれました。

ちょうどそのころ、横浜の関内に、
秋山眼科がオープンしました。

若き病院長・秋山先生は、
ドイツ仕込みの最先端の技術を持っていました。

その秋、私は、
水晶体摘出手術を受けました。

子供でしたから、完全麻酔。
注射を打たれて寝ているうちに、右眼のレンズは除去され、
1カ月間、両目に包帯を巻かれて暮らしました。

包帯も眼帯も取れたとき、
私の右目は、ものが鮮明に見えるわけではないのですが、
以前より、くっきりと光をとらえるようになっていました。

昭和37年、目に備わっていたレンズを失った代わりに、
私は、10歳にして、ケース
コンタクトレンズ常用者となったのでした。

当時の秋山眼科は、欧米のクリニックそのものの、
洗練されたオフィスでした。
そこに美しいモデルのような看護婦さんがたくさんいて、
みなコンタクトレンズの扱い方や保管の仕方などを、
コンサルティングしてくれました。

私の右目は、分厚い凸レンズを、黒眼につけると、
2.0の視力を出しました。

ものが両目で、くっきりと見える。

私の右目は、復活したのでした。

しかし、それは遠くを見るときの場合。
近くを見ると、視点が固定されているために、
ぼけている。

以来、私は、書かれたものをずっと左目で見るようになります。

スポーツも大好きでしたが、
屋外の競技や接触プレーのある種目は、
積極的には、できませんでした。
クラブ活動は、従って中学高校と6年間、器械体操。
屋内競技で、接触プレーのないもの。

もちろん野球やサッカー、バスケットボールなど、
球技は大好きでしたので、
授業や遊びでは、楽しみました。
しかし、本格的にはできないものと、
はじめから、あきらめていました。

大学受験の時、
夜中に、突然、その左目も、真っ暗になって、
見えなくなったことがあります。

それでも、明け方、恐る恐る目をあけると、
光が光が入ってきて、
心の底から安堵したことを覚えています。

大学時代は無頼派。
夜ごと飲んだくれて、
目に良いはずはない。

べろべろに酔っぱらって、バク天をする。
それが当時の私の芸でした。

その後、学校を出て、
私は、㈱商業界に入社しました。

雑誌の出版社に入ってしまったのです。

『販売革新』という編集部に配属されると、
私は、毎月のように、
何夜も徹夜で原稿書きを始めました。

右目にはコンタクトレンズ、視力2.0.
左目は裸眼、視力0.7といったところでした。

20代中頃、いつしか左目にも、
ハードコンタクトレンズが入っていました。

それでも、若さに任せて、目を酷使し続けてきました。
自分では、それほどの不自由もハンデも感じませんでした。

私の仕事は、お店を見ること、
商品を見ること、
人の話を聞くこと、
それを文章にまとめること。

日本中のお店を見て歩きました。
アメリカやヨーロッパのお店まで巡りました。
すべて、私の眼を通して見たものばかりです。
メガネ
よく耐えてくれたと思います。
今では、メガネにもお世話になっていますが。

今、こんな仕事ができるのも、
みな、私の目のおかげです。
秋山先生のおかげです。

だから、私は目の手術をしても、
ありがたいとしか、思いません。

ダークダックスのマンガさんのように、
なっていたかもしれないからです。

江戸時代ならば、伊達政宗か柳生十兵衛、丹下左膳。
昭和でも、30年代前半に怪我をしたのならば、
ほぼ同様だったでしょう。

昭和37年だったから、水晶体摘出手術が受けられた。
現在の白内障です。

そして、私は、その右目に、
次の試練を受けることになるのです。

<明日につづく、結城義晴>


2 件のコメント

  • 無事の退院、おめでとうございます。病気自慢をしようと手ぐすねをひいて待っていたのですが、病歴僅か1年の私にとって45年のキャリアをお持ちとか。恐れ多く、早々に退散いたします。

  •    デン助さま、病気自慢合戦、
       この年になると、いいものかもしれません。

       カラヤンとバーンスタインが、
       深刻な顔をして、二人だけで、
       部屋にこもってしまいました。
       みなが心配していると、
       病気自慢をしていたらしいのです。
       あっちが痛い、こっちが痛い、と。

       そんな年になりました。
       でも、病気自慢しつつ、
       やることはやる。
       やるときには。
       そんな気持ちです。

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