結城義晴・燃える闘病日記⑨退院後、自分の目に関して振り返る
昨日、退院しました。
お花、お便り、メール、電話など、
本当にありがとうございます。
入院や手術、退院を、
宣伝しながら挙行しているみたいですが、
[毎日更新宣言]となると、
そうなってしまいます。
でも、こういったときの励ましのお花や、
思いやりに満ちたお言葉は、
本当にありがたいものです。
ですから、私、まったくといってよいほど、
後悔や不安がありませんでした。
ずっと、前向きに、それでいて冷静に、
ものを考え、行動することができました。
ありがとうございます。
そこで、退院記念に(?)
私の眼といくつかの手術を、思い出しながら、
振り返ってみようと思います。
時間は、45年前にさかのぼります。
結城義晴、10歳の夏。
私は、横浜に暮らしていました。
小学校4年生。
夏休みに、両親とともに、福岡の田舎に帰りました。
福岡県早良郡早良町大字小笠木字脇山村。
私の生まれ故郷です。
ここに、結城一族が住んでいるのですが、
私は叔父の家に、1カ月近くも、居座って、
田舎暮らしを満喫していました。
同じ年の従兄たちと、
野山を駆け巡り、
虫を捕ったり、花を摘んだり、
それはもう大自然の中で、
のびのびと生活していたのでした。
この夏は、とりわけ手作りのパチンコで遊びました。
木の股を切り取ってきて、
そこに太いゴムをかける。
そしてパチンコをつくる。
竹を削って、細い矢のようなものをつくる。
それで、蛙を撃つのです。
残酷な遊びです。
夏中、私たちは、田んぼの畦で、
何百匹もの蛙を撃ちました。
矢が、蛙の背中から腹まで、突き通される。
それを高々と持ち上げて、収獲とする。
竹の矢じりだけでなく、
針金をU字型に曲げて、
それを打つという遊びもしていました。
ある暑い日の午後、見事なアゲハ蝶が、
叔父の家の縁側にひらりひらりと飛んできました。
たった一人で退屈していた私は、
パチンコを取り出し、
U字型の弾を引っ掛け、
アゲハ蝶にねらいを定めました。
思い切りゴムを引っ張って、
弾を解き放つ。
それ以来、私の右目は、
視力を失いました。
針金の弾が、跳ね返って、
右目に刺さってしまったのでした。
ダークダックスというコーラスグループがありました。
リーダーは、確か、「マンガさん」。
そんなあだ名のついた小柄な人でした。
私の右目は、あの「マンガさん」と同じ症状となりました。
それまでは、両目とも1.5でした。
このときから、右目には霞がかかって、見えません。
近所の眼科で応急処置をしてもらって、
私は横浜に帰りました。
何軒もの眼科医を訪れました。
母が、とりわけ心配してくれました。
ちょうどそのころ、横浜の関内に、
秋山眼科がオープンしました。
若き病院長・秋山先生は、
ドイツ仕込みの最先端の技術を持っていました。
その秋、私は、
水晶体摘出手術を受けました。
子供でしたから、完全麻酔。
注射を打たれて寝ているうちに、右眼のレンズは除去され、
1カ月間、両目に包帯を巻かれて暮らしました。
包帯も眼帯も取れたとき、
私の右目は、ものが鮮明に見えるわけではないのですが、
以前より、くっきりと光をとらえるようになっていました。
昭和37年、目に備わっていたレンズを失った代わりに、
私は、10歳にして、
コンタクトレンズ常用者となったのでした。
当時の秋山眼科は、欧米のクリニックそのものの、
洗練されたオフィスでした。
そこに美しいモデルのような看護婦さんがたくさんいて、
みなコンタクトレンズの扱い方や保管の仕方などを、
コンサルティングしてくれました。
私の右目は、分厚い凸レンズを、黒眼につけると、
2.0の視力を出しました。
ものが両目で、くっきりと見える。
私の右目は、復活したのでした。
しかし、それは遠くを見るときの場合。
近くを見ると、視点が固定されているために、
ぼけている。
以来、私は、書かれたものをずっと左目で見るようになります。
スポーツも大好きでしたが、
屋外の競技や接触プレーのある種目は、
積極的には、できませんでした。
クラブ活動は、従って中学高校と6年間、器械体操。
屋内競技で、接触プレーのないもの。
もちろん野球やサッカー、バスケットボールなど、
球技は大好きでしたので、
授業や遊びでは、楽しみました。
しかし、本格的にはできないものと、
はじめから、あきらめていました。
大学受験の時、
夜中に、突然、その左目も、真っ暗になって、
見えなくなったことがあります。
それでも、明け方、恐る恐る目をあけると、
光が光が入ってきて、
心の底から安堵したことを覚えています。
大学時代は無頼派。
夜ごと飲んだくれて、
目に良いはずはない。
べろべろに酔っぱらって、バク天をする。
それが当時の私の芸でした。
その後、学校を出て、
私は、㈱商業界に入社しました。
雑誌の出版社に入ってしまったのです。
『販売革新』という編集部に配属されると、
私は、毎月のように、
何夜も徹夜で原稿書きを始めました。
右目にはコンタクトレンズ、視力2.0.
左目は裸眼、視力0.7といったところでした。
20代中頃、いつしか左目にも、
ハードコンタクトレンズが入っていました。
それでも、若さに任せて、目を酷使し続けてきました。
自分では、それほどの不自由もハンデも感じませんでした。
私の仕事は、お店を見ること、
商品を見ること、
人の話を聞くこと、
それを文章にまとめること。
日本中のお店を見て歩きました。
アメリカやヨーロッパのお店まで巡りました。
すべて、私の眼を通して見たものばかりです。
よく耐えてくれたと思います。
今では、メガネにもお世話になっていますが。
今、こんな仕事ができるのも、
みな、私の目のおかげです。
秋山先生のおかげです。
だから、私は目の手術をしても、
ありがたいとしか、思いません。
ダークダックスのマンガさんのように、
なっていたかもしれないからです。
江戸時代ならば、伊達政宗か柳生十兵衛、丹下左膳。
昭和でも、30年代前半に怪我をしたのならば、
ほぼ同様だったでしょう。
昭和37年だったから、水晶体摘出手術が受けられた。
現在の白内障です。
そして、私は、その右目に、
次の試練を受けることになるのです。
<明日につづく、結城義晴>
2 件のコメント
無事の退院、おめでとうございます。病気自慢をしようと手ぐすねをひいて待っていたのですが、病歴僅か1年の私にとって45年のキャリアをお持ちとか。恐れ多く、早々に退散いたします。
デン助さま、病気自慢合戦、
この年になると、いいものかもしれません。
カラヤンとバーンスタインが、
深刻な顔をして、二人だけで、
部屋にこもってしまいました。
みなが心配していると、
病気自慢をしていたらしいのです。
あっちが痛い、こっちが痛い、と。
そんな年になりました。
でも、病気自慢しつつ、
やることはやる。
やるときには。
そんな気持ちです。