退院の日。
東京の冬の空。
これで人生5度目の入院だった。
第1回目は10歳の時。
針金が右目に刺さって、
水晶体摘出手術を受けた。
夏休みの間中、
横浜の秋山眼科に、
両目を目隠しされて入院した。
第2回目は13歳の時。
中学校に入学したばかりの時点で、
盲腸炎で入院した。
その入院で英語の授業に後れをとった。
小学校でローマ字オタクだった私は、
英語のスペリングとローマ字の関係性に、
全く納得がいかずに苦しんだ。
もちろん必死で学んで、
すぐに追いついた。
第3回はずっと年を取って、
社会人になって㈱商業界の社長時代。
53歳の春。
水晶体を摘出した右目が、
今度は網膜剥離となった。
このときから、
東邦大附属病院にお世話になった。
網膜を縫い合わせてから、
第4回目は㈱商人舎を創立した直後。
55歳の、やはり春。
やはり右目の緑内障で、
硝子体全摘手術を受けた。
昨日のブログに書いた。
そしてこの入院のときに、
私の頭に言葉が浮かんだ。
「知識商人」
この言葉はその誕生の瞬間まで、
ブログに記されている。
入院中、ドラッカーの本を読んだ。
『ポスト資本主義社会』
この本に出てきたキーワードが、
「知識労働者」「知識経営者」「知識専門家」だ。
病院という知識社会で働いていたのは、
こういった人たちばかりだった。
主治医の富田剛司医学部教授、
執刀してくれた北善幸先生。
日本を代表する眼科の専門家。
緑内障・白内障・網膜剥離のスペシャリスト。
知識だけでなく、手術の腕も超一流。
こういった先生方は、
もちろん医学全般の知識はある。
しかし、その面だけでは、
多分、普通の医学人。
先生方が、社会貢献しているのは、
専門知識と専門技術によってであった。
今回の慈恵の炭山和毅教授は、
内視鏡の日本の権威だ。
それ以外にも、
多くの看護師さん、
薬を調合してくれた薬剤師さん、
食事を用意してくれた栄養士さん。
みんなそれぞれ専門知識を持つ、
知識専門家だ。
商人もこうならなくてはいけない。
だから知識商人だ。
そう、気がついた。
私は幸せだ。
入院して、収穫を得る。
さての最後の朝食はパン。
バターと杏子のジャム。
ダイコンとツナのサラダ。
そしてヤクルトジョアとミカン。
東京タワーはずっと、
入院患者を励ましてくれた。
私の部屋は1103号室。
個室です。
仕事もしなければならないし。
結構、広い。
素振り用の短いゴルフクラブは、
どんな出張でも持っていく。
今回も持参して、
初日だけはきちんと練習した。
けれど手術してからは使えず。
パターをもってくれば、
パッティング練習ならばできた。
体への負担もかからない。
残念だった。
この部屋に6日間。
お世話になりました。
ありがとうございました。
広い広い窓の外に、
東京タワー。
ありがとう。
退院です。
〈自撮りです。見事!〉
慈恵大学病院本院の1階フロア。
中央棟。
日曜日なのでロビーにも、
退院する人が数人いるだけ。
学校法人慈恵大学の建学の精神は、
「病気を診ずして病人を診よ」
創設者の高木兼寛が目指した理想。
「医学的力量のみならず、
人間的力量をも兼備した医師の養成」
その精神に基づいて、
看護師、薬剤師、栄養士、
事務員、清掃担当者、
例外なく病人を見ている。
だからすべての人が、
患者を名前で呼ぶ。
私は炭山先生からも、
看護師さん、薬剤師さんからも、
「結城さん」と呼ばれた。
13年前に発見した「知識専門家」は、
いま、慈恵大学病院でさらに、
ホスピタリティを身に着けている。
とくに慈恵でそれを強く感じ取った。
知識商人も当然のこととして、
ホスピタリティが必須である。
ありがとうございました。
キャディバッグを引いて、
地下鉄の駅に行く前に、
病院のそばの芝公園へ。
地上から東京タワーを見上げたかった。
銀杏が葉を散らせて、
下には黄色の絨毯。
東京タワーにも、ありがとう。
慈恵大学と同じように商人舎も、
「商売的力量のみならず、
人間的力量を兼備した商人の養成」を、
ずっと、目指したい。
まだまだ頑張ります。
ありがとうございました。
〈結城義晴〉