こどもの日。
祝日法の趣旨は、
「こどもの人格を重んじ、
こどもの幸福をはかるとともに、
母に感謝する」
その母の日は、
5月第2日曜日。
今年は5月9日。
だから今週は、
子どもと母の1週間だ。
これは毎年、書いている。
今日は風が強い曇天。
新緑が美しい。
朝日新聞「折々のことば」
昨年のこどもの日は第1807回だった。
子供たちには
過去も未来もない。
で、これは我々には
殆(ほとん)どないことだが、
現在を享楽する。
(ラ・ブリュイエール)
1645年から1696年の人。
フランスの啓蒙主義の先駆者。
著書『カラクテール』
子どもたちには過去はない。
大人は子どもには未来が開けていると言うが、
彼ら自身の視野には、未来もない。
「子供は現在を享楽する」
それが子どもだ。
編著者の鷲田清一さん。
「とすれば、
それがなくなるかもしれないという
喪失の不安こそ、
子供が子供でなくなる
最初の一歩なのか」
昨年、私も考えた。
COVID-19パンデミックは、
世界中の子どもたちを、
子どもでなくしてしまうかもしれない。
それが怖い。
いや、しかし、どんなときにも、
子どもは今を楽しむことを、
知っているのかもしれない。
それが子どもだからである。
ほぼ日刊イトイ新聞。
5月3日の「今日のダーリン」
「待つ」を考える。
「待つっていうのは、
とても大事なことでさ。
しかも、とても
むつかしいものなんだよねー」
「たとえば、親が、子どもの
なにかするのを待つこと」
「子どもは、いかにも
寄り道をしているようにも見えるし、
そっちへ行っても永遠に
できっこないほうに行くし、
途中でやる気を失ったりもするし、
そもそもはじめから
やる気がないかもしれないし」
子どもは現在を享楽しているからだ。
「どこかの分岐のところで、
代わりにやってしまうとか、
もういい、とか言って
やめさせちゃうとか、
早くしなさいと急き立てて
置き去りにしちゃうとか、
まぁ、子どもにしてみたら
理不尽なことを、
わりとやったりもしているよね、
親って、一般的に」
「”待つ”ことと、導くことの
バランスは実にむつかしい」
同感。
私も会社勤めの若い管理職のころ、
待つことと導くことの問題で苦しんだ。
どうしても部下を導くことに偏った。
「企業なんかでも、
ある程度の成果をあげることと、
人が成長してくれることと、
両方を期待しているから、
手や口を出したくなるようなことは、
もちろん多いよね」
「”待つ”ことを方法として
身につけている上司のほうが、
きっと長い目で見たら
いい結果を出すんだろうなと、
そういうことも言われてるんだけど、
簡単じゃぁないよ」
「”待つ”は、その場でのいい結果を
見せてくれないから、
それを学ぶっていう機会が、
なかなかないのだ」
しかし糸井は、
「これは”待つそのもの”だ」を、
唐突に発見する。
それは「あらゆる表現物」
例をあげると、
「表現物=本」
本はすでにそこに「ある」
そして、黙っている。
「おい、それはちがうぞ」とか、
「もっと、こうだよ」とか、
まったく言うことはない、
書いてあること以外言わない。
「読み手、受け手が
迎えにいったことだけが得られる」
「受ける側から
“学びにいった”ぶんだけが
経験になる」
しかし最近の本は、
手取り足取り教えたがる。
そんな本が実に多いし、
そんな本が売れる。
糸井さん。
「誤読も曲解も含め、本は
読み手に注意のひとつもしない」
「それなのに、本が
どれだけの人にものを伝えたろうか」
「”待つ”を学ぶのは、
そこからじゃないかと思ったんだ!」
同感だ。
手取り足取り教えたがらないから、
本来の本には意味がある。
「表現物」から「待つ」ことを学ぶ。
若くても「待つ」ことを知る者は、
表現物によく触れている。
だから若い上司、若い教師、
若い親たちも、
失敗ばかりはしない。
私もそうだったと思う。
糸井さん。
「たぶん、迎えに行きたくさせるのは
人の仕事なのだろうな」
それが仕事だ。
こどもの日から、
母の日へ。
「待つ」ことと、
「導く」こと、
そのバランスを知っていたい。
〈結城義晴〉